第5話 化学準備室のアレクサンドル
昼休みに二人は、中庭のよく見える化学準備室に来ていた。
構内は、研究棟を挟んで南と北に二つの学舎、西にメインホール、東にジム、カフェテリア、図書館の建物があり、それぞれ、回廊で繋がっている。
化学準備室は研究棟にあり、学舎との間の中庭を見下ろせる場所だ。
「教授はいないんだ?」
「化学のダルメイヤー教授は、他の先生と近くの定食屋に行くので、その間は自由に使わせて貰っています。」
ヴィヴィアンは、締め切っていた窓を細く開けて換気し、窓際のテーブルの周りに椅子を寄せてゆく。
「ふうん。」
「双眼鏡なら、これを。」
ヴィヴィアンは、片隅のロッカーから、道具を取り出し、窓際の卓に並べる。
「待って… 俺たちの昼ごはんは?」
「これを。」
ヴィヴィアンは紙袋を渡すと、布巾を取り出してテーブルを拭く。
アレクサンドルが紙袋の中身を覗く。
「クラブハウスサンド?」
「スープはありませんが…」
「どうしたの?これ?」
アレクサンドルが驚くと、ヴィヴィアンが俯きながら答える。
「寮の調理室をお借りして… あの、昨日はご馳走頂いたので… お口には合わないかもしれませんが… それなら、今からカフェテリアに行っていただいても…」
「…ありがとう。でも、きみ、忙しいのだから、無理しなくていい。」
アレクサンドルは、友人に食事を手作りしてもらうこと自体が初めての経験で、大いに動揺する。
「… ごめんなさい。王族の方に手作りは問題ありましたね…」
ヴィヴィアンは、罰の悪そうな顔をする。
「… そういう意味では… 用意してくれて嬉しいよ。いただくよ。明日からカフェテリアで食べない日は、俺がカフェテリアで二人分買って来るから。きみが作ったものがどう、とかじゃなくて、きみが休む時間も必要だから、という意味だよ?」
言えば言うほど、言い訳のようになってしまい、今さら、嬉しいなどと素直な気持ちを伝えられない。
「重ね重ねありがとうございます…」
言葉選びの小さな間違いが、少しだけ縮まりかけた二人の距離感をまた遠くする。友人と呼ぶには萎縮され過ぎて居心地が悪い。
「敬語は… 度を過ぎると、疎外感を感じるな。
ヴィヴィアンは、ランチョンマットを広げる手を止める。
「… 友人らしい友人がいたことがなくて。貧乏過ぎて、貴族の友だち付き合いができないのです。」
なんとも、返答に困る。
「なるほど。家族は?」
「両親と、11歳の弟が一人います。」
ヴィヴィアンが水を入れたビーカーを三脚に乗せ、下からアルコールランプで火をかけた。
「弟の名は?」
「マクシミリアンです。」
答えながら、ヴィヴィアンは準備室の戸棚から茶器と紅茶を取り出す。
「何と呼ぶ?」
「家族の中では、マックスと。」
「うむ。では、俺のことは、アレク、と呼んでみては?」
ポットに紅茶をセットしていたヴィヴィアンの手が止まる。
「恐れ多いです。」
「下町に行けば、誰もが俺をアレクと呼ぶぞ?」
誇張ではある。
「はあ… では、アレク… サンドをどうぞ。」
「ありがとう。いただきます。」
「…ふふ」
クラブハウスサンドを手にしたヴィヴィアンが、小刻みに揺れている。
「どうした?」
「アレク、と言った後にサンド、って… まるで、アレクサンド…ルで…」
ヴィヴィアンは、自分で言って、余計に笑いが込み上げてきたようで大笑いしている。
言葉の事故だが、ヴィヴィアンは笑っている。笑っているヴィヴィアンを見ると、そのくだらない冗談みたいなことも、どうでもよくなった。アレクサンドルは、多少なりとも、居心地のよい関係に近づくんじゃないかと期待する。
「殿下、弟は、私をヴィヴィと呼びます。」
「うん?」
アレクサンドルも、紙袋からクラブハウスサンドを取り出す。
「なので、殿下もヴィヴィ、と。」
「… 」
「すみません。馴れ馴れしかったですね。」
慌てて、ヴィヴィアンが取り下げる。
難しい。寄せてきた波を一度避けてしまうと、次の波はもう来ないのかもしれない。
「いや、ヴィヴィ、そう呼ぼう。ただし、未婚の女性が、男から愛称で呼ばれると、要らぬ詮索を受けるぞ?」
「それは、殿下も同じでは?」
「俺は、一度アレクサンド、とサンドイッチ扱いされたあと、きみから殿下と呼ばれている。」
アレクサンドルは大袈裟に拗ねた顔をしてみせる。怒っていると勘違いされてはたまらない。
「そうでした。」
ヴィヴィアンが所在無さげに小さく返事する。
「じゃあ、二人で仕事しているときは、対等に… アレクとヴィヴィ、で。それ以外は、その時に応じて…」
波にきちんと乗れたのだろうか。アレクサンドルは、ヴィヴィアンの顔を見つめる。
「わかったわ。アレク。」
ヴィヴィアンが微笑んだ。波に乗れたようだ。
「改めてよろしく。ヴィヴィ。これで、少し、気がラクになるよ。」
受け取るときに失敗したクラブハウスサンドは、美味しかった。だから、何度も美味しい、と言葉にした。最初の失敗を帳消しにしたい。
アレクサンドルが、美味しいと感じたのは、その味だけじゃない。自分のために友人が作ってくれた、その気持ちも含めて、美味しかった。
残念ながら、それを表現する言葉が見当たらず、馬鹿の一つ覚えのように、美味しいと繰り返し、ヴィヴィアンに胡散臭そうに見つめられたが、それでも、気持ちの半分は伝わったに違いない。
食事が終わる頃、ビーカーの湯も沸騰し、紅茶を淹れた。アルコールランプでどれだけ時間がかかるのかと心配したが、ちょうど良かった。
湯が沸くのを待っていたアレクサンドルは、クラブハウスサンドの礼のつもりで、紅茶を淹れた。
「で? ヴィヴィ、これで何を見たらいい?」
双眼鏡を持ち、窓辺に座り直す。
「このリストが、婚約破棄のリスクが高い順に並んでるので… 中庭のベンチに座っている二人組たちの組み合わせと違ったら、日付けと第三の女、または第四の男の名を書き入れてください。」
リストと鉛筆を渡される。
「… 伯爵家以上しか、顔と名前が一致しない。」
ヴィヴィアンには言えないが、ヴィヴィアンのことも、学長に言われるまで、全く気に留めていなかった。付け焼き刃の社交能力では、子爵家以下まで手が回らない。
「え?!」
「え?」
想像以上に率直なヴィヴィアンの反応に、無礼とか不躾とかではなく、少し嬉しさが混じる。
「何でもない… わからないときは聞いて。」
少しむっとした表情でさえ、その調子だとエールを送りたい。
「ありがとう。」
ニヤりと笑うと、ヴィヴィアンの毒気も消えた。
「ベンチの東から三番目は?」
「第六学年、子爵家、ハムネット嬢。」
「第三の女か…」
「リストの10番目の当事者でもある。」
「え… そこ、登場人物かぶるの?」
双眼鏡から目を離し、ヴィヴィアンを振り返る。
「じゃなきゃ、年間20組とか行かないから!」
ぷりぷり怒っている。その怒りは、今まで誰とも共有できなかった怒りだろう。口に出して吐き出せば、多少はラクになるだろうか。
「これは厄介だな… 本当に… ベンチの一番東は?」
「あれは… 第四学年の聖女エリーゼ、リストの二番目の第三の女。」
「…泣いてるみたいだ。」
「修羅場?」
「公爵家の長男が一方的に責めてるように見える。」
「ふうん。」
「あ、男がハンカチを渡した。」
「痴話喧嘩?」
「そんなところ?かな。」
「まだそこまで進展してないと思ったのに。ニールにはがっかり。」
「… これ、すぐ覗いて。」
アレクサンドルはヴィヴィアンに双眼鏡を渡した。
「ニールがエリーゼに渡したハンカチ、エリーゼが握ってる?見てみて。」
「ええ、見える。」
「ハンカチの中に、小瓶をくるんでるの見えるか?」
「見える。どういうこと?」
ヴィヴィアンは双眼鏡から目を離すと、眉根を顰めてアレクサンドルを見つめかえした。
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