第2話
週に五回、僕は貴族令嬢であるシャルル・ココの屋敷に通う。たまに僕の家に押しかけてくることもあるから、実質週六で彼女に、あるいは彼女たちに抱かれる。
金貨一〇枚。それが一日で稼げる金額で、僕の価値。
ほかの人たちが月にどれくらいの金額を稼いでいるのかはわからないけれど、僕はそのおかげで妹と二人、何不自由することなく過ごせていた。
少し、いや大いに不満はあるけれど、仕方がない。何せ、世の男たちはもっと悲惨な目に遭っているはずだから。
「じゃあ、ちょっと買い物に行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい、お兄ちゃん」
仕事はいつも夕方から。それまで僕は、妹の相手をしたり家事をしたり、衛兵の相手をしたり本屋に行ったりして過ごす。
男だとバレないように女物の服を着て、麦わら帽子を目深にかぶる。街中を歩く女性たちに紛れ込み、商店街を目指した。
「――おっと、失礼」
「ぁ、ごめんなさい……!」
危うく前方から歩いてきた人とぶつかるところだった。足元ばかり見ていたから、気付かなかった。
「お嬢さん、もしかして誰かに追われてたりしないかい?」
「え、え?」
思わず目線を上に向ける。そして、僕はぎょっとした。何故なら、紅の瞳がすぐ目の前に迫っていたから。
初対面の相手なのに距離感がおかしい、なんて文句を言わせない目力があった。圧力。それでいて嬉々と釣り上がった目尻。
冷汗が額に滲む。きょうは比較的あったかいはずなのに、ひどく寒気がする。
「挙動不審だ。俯きながら周囲を警戒してる。目を合わせたくない、あるいは顔を見られたくないのかな。そして早足だ。後ろを気にしてるね。特に衛兵が近くにいた時は露骨だったよ。目線をまっすぐに固定して、私なにも悪いことしてませんみたいな顔だった」
「い……いつから」
「いつから見てたのかって? ずっとだよ。ずっと。きみが家から出てきてから、ずっと」
僕は来た道を走った。音よりも速く駆け抜けた自信がある。けど、実際は三歩も進むことなく彼女の手に捕まった。僕の左手首を握りしめる、冷たくて硬い感触。女とは思えない、武骨な手のひらだった。
「冗談だよ。ただ目立ってたから気になって、少し前から跡をつけてたんだ。くく、そんな怯えなくてもいいじゃないか」
「は……離して……っ」
「いいけど、いいの? 衛兵がこっちを見てるよ」
「っ」
弾かれたように僕は四時の方向を見た。見覚えのない衛兵二人が、怪訝に僕のことを見ていた。衛兵だけじゃない。道を行き交う人々が、僕を見ている。
僕は咄嗟に顔を下に向けた。心臓が肉を突き破ってこんにちはしそうだった。呼吸が苦しい。
「なにも取って食ったりはしないよ。祖国の人間にはやさしいんだ、わたしは」
僕の左手首を掴んだまま、彼女が僕の正面に顔を覗かせる。金色のツインテールがはねる。桜色の唇から八重歯をちらつかせ、彼女は笑った。多分。
「もし追われているのなら、わたしがきみの助けになろう。見ての通りわたしは軍人だ。殴って刺して死体を積み上げるのが仕事だからね。腕っぷしには自信があるよ」
それを笑顔だと言っていいのかわからない。口角はたしかに上がっているし、目尻も下がっている。けれど、それだけ。まるで作り物のように無機物じみた、冷たい笑顔だった。
「この義手が気になるかい? これはね、二年前の戦争で吹っ飛んだ。隣国のサルは数だけで見たらそこそこ脅威でね、我が国の兵力の三倍で攻めてきたことがある。きみも知ってるだろ? カルロス山岳の戦いだよ。あの歴史的勝利をもたらした第三中隊の前衛でわたしは剣を振るっていた」
敵将を討ち取るのと引き換えに、右腕が吹っ飛んだ。名誉の負傷だよ。おかげで少佐に昇進できたんだ。そう言いながら、テーブルの上にあるコーヒーカップを義手でつまみ上げた。動きに一切の淀みがない。本当に機械なのかと疑うほどに、普通の手と同じ動きをしていた。
「エルは本当になにもいらないのかい?」
「は、はい」
「緊張しているの? それとも怖い? 大丈夫、そう怯えなくてもいい。わたしがそばにいるよ。わたし、最強だから」
フレデリカ・ラスカーノと名乗った背丈のちいさな軍人さんは、僕の膝の上に置いた手の甲に手のひらを重ねた。冷たい義手の感触。力の加減がわからないのか、押し当てられた手が痛い。
場所は喫茶店のボックス席に移動していて、何故だかフレデリカさんは僕の正面にではなく隣に座っていた。
「帽子をとってよ」
「い、嫌です」
「どうして?」
「ふ、フレデリカさんも帽子かぶってる」
「おっと。これでいい? さあ、次はきみの番だよ。帽子をとって、もっとしっかりきみの顔を見せておくれ」
「ぅ……」
とても嫌だった。帽子を取るのも嫌だし、距離感が近いのも嫌だ。
そして何より、怖い。
女性が恐ろしいのは今に始まったことではないけれど、彼女からは別種の恐ろしさを感じる。
今まで出会ったことのない、例えるなら鋭利なナイフで脅されているような。
それにラスカーノと言えば、あのラスカーノ公爵家で間違いない。世間に疎い僕でも名前を知っているほどに偉い人で、目前の彼女はその公爵令嬢。
シャルルさんよりも上の立場の人だ。あごで平民の人生を潰せるほどの権力者だ。緊張しない方がおかしいし、彼女自身から武勇伝を聞かされなくとも彼女の偉業は僕の耳にも入ってくる。
とても強くて、恐ろしく冷たい女。曰く、死神。戦術兵器とも。
「あ、あの……!」
「なんだい?」
彼女の義手が頭の上の麦わら帽子に触れたところで、僕は声を絞り上げた。
かわいらしく小首を傾げるフレデリカさん。
「あ、え、と」
「どうしたの? 言ってごらん」
「あ、ぅ……」
血のように赤い瞳に見つめられる。さながら僕は、凶暴な猛禽類に狙われた野うさぎだ。
どうにか何か喋ろうとして、けどなにも思いつかず。
口だけがむにむにと動いて音はなにも出てこない。そんな僕を、フレデリカさんはじっと眺めている。
だいたい一分ほどそうしていると、視界の隅でトイレをみつけた。
「お、お手洗いに……お手洗いにいきたいです」
神様は僕のことを見捨てていなかった。存在しているならもっと早く助けてくださいと愚痴を言いながら、僕は天から差し込んだ光明を放つ。
「くく……」
フレデリカさんは、笑っていた。
悪役みたいな笑い方だったし、なにがおもしろいのかわからなかったけど、フレデリカさんは顔をおさえながら表情をやわらげていた。
「ああ、うん。ごめん。お手洗いね。行ってくるといい、わたしはここで待ってるから」
着いてくるって言われたらどうしようかと思ったけど、それは杞憂に終わった。僕はいそいそとトイレに向かった。仕切りの向こうに入って、顔を覗かせる。フレデリカさんはまだ笑っていた。笑いながら、窓の向こうを眺めている。
僕は背を屈めながら、喫茶店を出た。
そして走った。心臓が激しく脈打つ。背筋がヒヤリとする。もし逃げ出したのがバレたら、どうなるんだろう。しばらくは家から出ないでおこう。
いつもの倍以上に荒い息を吐きながら、僕は家路に向かって走る。
「あれぇ? エルじゃん。もしかしてあたしらをみつけて駆けてきたの? ちょーかわいいじゃん」
「ちょうど暇してたんだー。カラダ貸せよ」
「ぁ、ぁ」
体力が切れて足を止めたところで、僕は不幸にも彼女たちと
僕より頭一個半もおおきい彼女たちが、ニヤニヤと口角を歪めながら僕の両腕を引っ張った。路地裏に引き摺り込まれる。
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