第10話

「これは何……!一体なんだって言うのよ!」


絶叫する翠玲を月の光が照らし出す。

翠玲は混乱しているようだが、全て知っている公主にとってはいちいち真面目に取り合っていられない。


「落ち着いてごらんなさい。あなたならよく知っている世界でしょう。ここは、あなたの夢なのだから」


「夢だなんて、そんな馬鹿な!朱妃さまは!みんなはどこ!」


「夢から覚めたら会えるわよ。それより、あなたには大事な用があるのよ」


「何を……!」


翠玲は公主を睨みつけた。

まるで凶悪な犯罪者でも見るかのような目つきだ。

皇族に対する態度としては間違いなく咎められるものだろうが、ここは宮殿とは遠くかけはなれた夢想の世界だ。

ここにいるのは、公主と黎心、そして翠玲と静影だけ。


「さあ、全て終わらせましょう」


公主は翠玲の元へ歩み寄る。

足元に転がっていた菱形の飾りを踏み、ぱきりと音がした。


「来ないで……!」


翠玲は弾かれたかのようにダッと駆け出していく。

朽ちかけの扉に体当たりしそうな勢いでバタバタと逃げていく翠玲を、公主たちはゆっくりと追いかけていった。


「静影はもう少し先でしょうか」


「どっちにしろあの子が行き着く先にいるでしょうね」


どうせ同じ場所にたどり着くなら、わざと刺激する理由は無い。

それに、翠玲は相当錯乱しているようで足取りも覚束なかった。

すぐに公主たちは、見覚えのある場所へ到着する。

ミシッと床が軋んだと思ったら、薄闇の中から狼が姿を現した。


「……っ!」


思わず翠玲が息を飲む。

翠玲の目の前で動きを止めた狼の口元には、血だらけの人らしきものが咥えられていた。

壊れた人形のようなそれは、よく見れば青年であることが分かる。

柳静影だ。意識は無いようだが、死んではなさそうだった。


「公主様、静影は……」


「まだ生きているわ。大丈夫、彼もそんなに弱くはないんでしょう」


そう言えば、黎心は自信ありげに頷く。

同僚のことを大変信頼しているようだ。


「あれはあなた自身の記憶を投影したものね」


静影から目を逸らしている翠玲にそう言えば、彼女の肩はびくりと跳ねた。

もうどこにも逃げ場は無いのに、視線を右往左往させては足をガクガクと震わせている。


「幽鬼の魂を元に、あなたの中に眠る記憶を混ぜ合わせて作った化け物。そうでしょう」


「違います。私は知りません」


即答だった。

嘘をつくのがずいぶん下手らしい。

知っていると答えているも同然の反応だ。


「怖くなったのですか。もう何日も静影を苦しめ続けているのはあなたなのに」


「だから私は……!」


黎心を睨むも、彼女は否定するばかりで反論しない。

公主は翠玲を落ち着かせようとゆっくり語り出した。


「思い出してごらんなさい。あの日、私たちが月照宮に初めて来た時のことよ。方士たちは柳静影の事件が呪詛によるものだと一言も外部に漏らしてはいないのに、あなたたちはこれを呪詛だと言ったわね」


「それは勝手にそう思い込んだだけで……!」


「他にも、あなたの故郷は泉郷州だと言っていたわね。ご覧なさい、ここには泉郷の名物である薄紫の牡丹が美しく咲いているわ。夢の世界は夢の持ち主の精神をよく反映するものよ。牡丹の花を恋しく思うあなたが夢の主なら、当然のことよね」


「確かに私は泉郷出身ですが、私以外にも泉郷から来た宮女はいるでしょう!言いがかりにも程があります!」


「そうそう、あの日私が柳天瑛として術を披露した時のこともね。みんなが歓声を上げて喜ぶ中、あなただけは憎らしげに天瑛を見ていたわ。柳一族の者である天瑛を、まるで仇だとでも言いたげに見ていた」


あの日、柳静影の親族であると名乗った天瑛を、翠玲は違う視線で見ていた。

皆が喜ぶ中、たった一人だけ笑うでも関心が無さそうでもない。


「あなた、柳一族に深い怨みがあるそうね」


あの視線は、怨嗟だ。

可憐な少女には似つかわしくない憎悪の炎。

それは、かつての公主が様々な人から向けられてきたものと何ら変わりなかった。


「だったらなんだって言うんですか。たったそれだけのことで、私が犯人だとでも!?私に呪詛が操れるそという証拠は!?私の記憶とやらはなんなのですか!?私はそんなもの知りません!」


「この夢こそが何よりの証拠だけれど……そうね、もっと納得してもらうには黎心から聞いた方が良さそうね」


公主の目配せに黎心は頷く。


「ずっと昔、静影が話してくれました。かつて柳家は泉郷の『郭』という商家からの依頼を反故にしてしまったのだと」


「……その家がなんなんですか、私には関係が無いでしょう」


「あなたは郭家の三女、郭翠玲ですね」


一瞬、翠玲が息を飲んだ。

動揺をすぐに取り繕った翠玲はしらを切ろうとする。


「違います。私は宋翠玲です。泉郷の外れの田舎に生まれました。郭家の娘ではありません」


表向きの調査では、確かに泉郷出身の宋翠玲となっていた。

泉郷の外れにある小さな商家の娘で、縁があり後宮の宮女となったのだと。

だがそれは表向きのものであり、翠玲の本来の経歴はその先にある。


「あなたは郭家が滅んだ後、宋家に引き取られました。その後は後宮の宮女へ。あなたは確かに、『故郷はもう無い』と言いましたよね。それは、故郷の土地そのものが無いというよりも、あなたの生家が消えたということでしょう」


翠玲がぽつりとこぼした「故郷はもう無い」という言葉。

きっと彼女は言うつもりはなく、ただ思わず話してしまっただけのことなのだろうが、公主たちはそれを見逃さなかった。


「郭家の話は全て知っています。郭家を敵視する商家から差し向けられた人喰い狼。それを退治する依頼を受けたはずの柳家が、狼を放った商家から賄賂を貰ったことでわざと失敗した……。あなた方が受けた仕打ちも、柳家のしたことも決して許されざるものです」


ずっと前、まだ静影が修行中の身であった頃のことだ。

狼を退治する命令を受けたのは年の離れた静影の兄だったが、彼は大人の前では誠実そうにふるまっているが、仲間うちでは名家の長男であることを鼻にかけては横柄な態度で威張り散らすような青年だった。

当然、賄賂は喜んで受け取り、狼退治に失敗して見せた。

もちろん、郭家の人々が死した後に退治するというやり方でだ。

彼は『依頼を受けて現場に向かったが一歩遅く郭家を助けることができなかった』と、まるで郭家が助けを求めるのが遅すぎたかのように語り、事を収束させてしまった。


しかし、全て終わったかのようなその事件には続きがある。

屋敷の一番奥の部屋に逃げ込んだ三女の郭翠玲だけは、幸運なことに巻き込まれず生き残っていたのだ。

かつて、郭家の屋敷は市街地から少し離れた場所に建てられた、牡丹の花が美しく咲き誇る邸宅だと言われていた。

しかし事件の後は幽鬼が彷徨っていると言われ、誰も近寄ることの無い廃墟となってしまった。

生き残った三女は郭家の知人に引き取られていき、二度と戻ってくることはなかった。


「……まさか、柳一族の者に再び会える時が来るなんて、夢にも思っていませんでしたよ」


そして今、郭家の三女翠玲はこの後宮で復讐を成そうとしている。


「私の家族は柳一族に殺されて、うっかり生き残った私は宋家で奴隷のようにこき使われて。それなのに、柳一族は未だ報いを受けることなく栄え続け、宮廷方士までいるなんてね……」


翠玲の顔に色がなくなっていく。


「どうして……どうして私の家族は狼に食べられて、私だけが生き残ったの。柳家の奴らなんか頼らなければ、あいつらさえいなければこんなことにはならなかったのに……!」


とうとう顔を覆って泣き崩れてしまった。

悲痛な叫びは、宵闇の中へ溶けていくばかりで。


「柳家の人間に、同じ苦しみを味わってもらいたかった。ただそれだけなのに……」


「あなた、怖くなったのね」


今更になって翠玲は自身のしたことのおぞましさに気がついたのだろう。

あれほど敵意を向けていたのに、今や公主の言葉を否定することさえしなかった。


「あの幽鬼、元はあなたの家族の誰かなんでしょう」


「……姉のものです。姉は家族の中で一番私に優しくて、大好きな人でした。姉は結婚相手が決まったばかりだったんです。あんなことがなければ、今頃幸せに暮らしていたはずなのに……」


姉の無念を晴らしたい。

その想いが歪みに歪み、行き着いたのが姉の魂を姉を殺したものに変えてしまった。

どれほど苦しんだのか、同じことをして同じだけの恐怖を味あわせてやればいいという思想に。

今だ翠玲の前で動かない狼は、一体何を思っているのだろうか。

それが分かる人物は、もうここにはいない。


「柳家の件は、静影も歯がゆい思いを抱えていました。柳家の人々はみな真実に薄々気づいておりながらも、露見すれば家門の恥になると思い隠すことを選んだ。静影はその罪を明らかにし、裁くために宮廷へ来たんです」


ハッとしたように翠玲は顔を上げた。


「え……」


「宮廷直属の方士という地位を得て、志燿殿下のお力を借りれるようになれば、実家の人々を糾弾することもできる。その思いを抱えて、彼はここへ来たんですよ」


そっと優しく諭すように黎心は話す。


「静影はあなたのこともずっと探していました。どうしているか、あなたが辛い思いをしていないかがずっと気がかりだと。最近になってそれらしい娘が月照宮にいるということを掴んだらしく、手紙を受け取ってからもしやあなたが静影に助けを求めているのではないかと、呼び出しに応じたのではないでしょうか」


なぜ静影が簡単に月照宮へ来てしまったのか。

それは全て、翠玲という一人の少女を思ってのことだった。

残念ながらその思いは仇となり、今も静影は夢の中に囚われている。


「そんな……そんなこと、あるはずが……」


ずっと憎んでいた相手が、自分を助けてくれようとしていた。

翠玲には受け入れ難い事実であり、そう易々と納得はできまい。


「だったら、私はなんのために朱妃さまのお力を……」


翠玲のか細い叫びとともに、狼の姿が少しずつ溶けて淡く消えていく。

術者である翠玲がそれを解除したのだろう。

もしくは、これ以上呪詛を続ける気力を失ってしまったのか。

次第に狼は消え、縛り付けるものが何も無くなった静影の体がドサッと落ちる。

黎心がすぐに静影の元に駆け寄り、まだすぐには目覚めないがその無事を確認した。


「朱妃……、やはり今回の件の裏には朱妃がいたのですか?」


今気づいたのかと、公主は一瞬口に出しそうになった。


「黎心は本当に後宮の人間に疎いのね。これは、朱妃の生家の家紋よ」


足元に転がっていた菱形の飾りを拾い上げる。

この特徴的な飾りは朱家の家紋であり、それが翠玲の夢の世界に溢れているということは、彼女の精神の根底に大きな影響を及ぼしているからだと推測できる。

それを黎心が知らないのは、言わなかったし聞かれなかったから、ただそれだけだ。


「で、では本当に朱妃様が?朱妃様は夢術を使えるのですか」


「使えるも何も、だって私がこうなったのは全部あの人の…………」


「公主様?」


「……いいわ、やめておく。知りたかったら自分で調べる事ね」


勝手に話を終わらせた公主に、黎心が不思議そうな顔をした。

くだらない話はしたくない。

目覚めが悪くなりそうだ。


「さあ、この続きは現実でしましょう。もうすぐ朝が来るわ」


項垂れてぴくりとも動かなかった翠玲が、ふと呟いた。


「急に消えたりして、みんなきっと混乱してるはずだわ……」


それを聞いて、公主は翠玲を宥めるようににこりと笑う。


「あら、いつからあれが現実だと思っていたの?」


「……え?」


次の瞬間、翠玲の視界が白く弾けた。



​───────​───────


いつの間に柔らかな寝台の上で眠っていた。

翠玲はそれに気づいてから、ゆっくりと目を開ける。

そしてすぐに、自分がどこで眠っていたのかに気づく。

これは朱妃様の寝台で、そして今、自分の目の前にいるのは​───────。


「目が覚めたかしら?あなた、とても面白い夢を見ていたようね」


朱妃の爛々とした瞳が、ただこちらを覗いていた。

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