第9話

その日、月照宮は大変な騒ぎであった。

実に、数週間ぶりの騒々しさである。


「朱妃さま、大変です……!方士さま方がいらっしゃるはずが……!」


淑やかさも忘れて、宮女が慌ただしく廊下を掛けていく。

咎めるものはおらず、むしろ、皆が困惑に包まれている。

そんな最中でも、朱妃は優雅に茶を飲みながらいつもと変わらない様子だった。


「まあどうしたの、落ち着いて」


「で、ですから方士さまではなく、あの方が!」


「ふふっ、そうみたいね」


「朱妃さま、どうすれば……!」


「そんなに慌てることじゃないわ。落ち着いて、こっちへいらっしゃいな」


おろおろとしていた宮女は、わっと朱妃に泣きつく。

まるで子猫でも可愛がるかのように、朱妃は彼女の頬を優しく撫でた。

そこへ、軽やかな靴音が近づいてくる。


「こんにちは、朱妃。この間は世話になったわね」


慌てふためいていた娘たちに向けて、現れた公主は堂々と挨拶をした。

侍女たちは公主とその隣に控えている黎心とを見比べて困惑している。

ここへ来るまで、皆が公主を見る度に化け物でも現れたかのような騒ぎになるのだから面白くて仕方がなかった。

数日前は男装した公主を見てきゃあきゃあ喜んでいた娘たちが、今はわあきゃあと悲鳴を上げているのだ。

こんなことで楽しむなんて我ながら悪趣味だと公主は思いつつも、これほど面白いことは他にないだろうとも思えるのだった。


「な、なぜ公主様がこちらに……!?今日月照宮へ来るのは宮廷方士のはずでは」


「事前に連絡も無く、突然訪れるなど……!」


本当なら先日の若い方士が来るはずが、後宮の奥深くに引きこもっている姫がなぜここへ。

月照宮の娘たちがしきりに公主を警戒するのには、ある『過去』が理由なのだが、未だに彼女たちは公主が月照宮に恨みを抱いているように見えるらしい。


「ごめんなさいね、柳天瑛というのは私のことよ。その名前で期間限定の弟子入りをさせてもらっていたの」


「そ、そんな馬鹿な!」


「皇子殿下からは許可を貰っています。正式な文書が必要であれば、すぐに提出しましょう」


黎心の言葉に、皆が押し黙る。

皇子からの許可が降りているというのに、宮女たちが拒否するわけにはいかない。

もっとも、朱妃だけは無関心そうに茶の香りを楽しんでいた。

彼女だけは最初から全て分かっていて、見逃してくれただけだ。


「で、では公主様はどういったご要件なのです?あなたさまと月照宮はもう何の関係もないでしょう」


そう、もうこことの関係は公主自身にはない。

だが、公主の引き受けたことにはあるのだ。


「決まってるわ。柳静影の件を、全て終わらせるためよ」


公主の一言に周囲がざわめく中、朱妃はただ高らかに笑う。

まるで、公主が何を言いたいのか全て見通しているかのようで、嘲笑っているようにも見えた。


「あなた、この頃はよく眠れているみたいね」


「おかげさまでね」


「それで、あなたの推理をお聞かせ願えるかしら」


「翠玲という宮女、彼女の夢が静影の魂を縛り付けている。そうでしょう?」


宮女たちがどよめくが、朱妃は何も答えない。


「わっ、私がどうかされましたか……!」


翠玲だ。

震えながらゆっくりと歩み出てきた。

皆が緊張した面持ちで翠玲を見つめている。


「私は事件には何も関わっていません。その方士の方とも面識が無いと、再三お伝えした通りです」


「そうね、静影本人との面識は無かったかもしれないわね」


「でしたら……!」


「でも、柳家とはそうじゃないでしょう」


「それは、どういう……」


翠玲に柳静影との関わりは無くとも、「方士一門柳家」にはあるのだ。

公主はそれを知っている。

彼女が何を理由に、何を思いこんなことをしたのかを。


「勝負はここからよ、黎心」


「はい、公主様」


控えていた黎心が、一方前に出る。

これから彼が何をするのかを知らない宮女たちは、黎心に複雑な表情を向けていた。

宮女たちに構うことなく、黎心は公主の指示通りに動く。


「九式・霜雪!」


札を取り出した黎心は術を発動させる。

一瞬で室内が青い光に包まれ、それらが消えた後、一面に広がる景色はもちろん月照宮ではない。


「ど、どうして……」


翠玲が小さく呟く。

あんなに騒いでいた宮女も朱妃も消え、眩しい太陽も沈んでしまった。

そこにあるのは、青白い月の光だけが差し込む廃墟だった。



​───────​───────



話は数日前に遡る。


「月照宮の翠玲という宮女?その娘がどうかしたのか」


公主から、翠玲についての調査を命じられた黎心は主である第一皇子志耀の元へ戻っていた。

わざわざ自分で翠玲の隠された過去について調べあげるよりも、志耀に頼んだ方が圧倒的に効率がいいからである。

が、彼の機嫌が斜めな様子を見ると、少し選択を誤ったかもしれないと思った。


「そなたは良いな。我が愛しの妹と共にいられるなど、私は休む間もなく押し付けられた厄介事を片付けているというのに……」


志耀はぶつぶつと文句を言い始め、黎心に恨めしげな目を向ける。


「あなたの命令でしょう」


「そうだとしてもだ!なんと羨ましいことか。ああ、我が妹よ。そなたの瞳は宝玉のようで、そなたの肌は白磁のようだ。どれほど美しい宝物を眺めてもそなたの美しさにかなうものはあるまい。にも関わらず、世の人々はそなたの真の美しさを知ることもなく、ただ噂話に興じている……ああ、なんということだろうか。この仕事が終われば、兄はすぐにでも」


「長いです。ちゃんと聞くので後にしてくれませんか」


容赦なく話をぶった斬った。

皇子の妹賛美をマトモに聞いていると途方もない時間を無駄にすることになる。


「……なんだ、黎心はその宮女のことが知りたいのだな。わかったわかった、ちょっと待っておれ」


「はい、公主様がどうしても知りたいと」


「なにっ、我が妹がか!それを先に申せ!」


「ですから、今言ったじゃないですか」


きっと、普段の鉄面皮しか知らないであろう官吏たちが今の志耀を見たら仰天するだろう。

皇族きっての切れ者と称される第一皇子志耀。

鷹揚とした性格の皇帝陛下とは違い、誰に対しても歯に衣着せぬ物言いをし、与えられた役目は完璧にこなし、日々学問に励む。

良くも悪くも皇帝とは似ても似つかぬ性格をした皇子は、皇帝の譲位が噂されるようになるにつれ、将来の活躍がますます期待されている。


が、そんな彼にはとにかく妹が好きすぎるという一面がある。

そのこと知っているのは、公主の事情もあり一部の極わずかな人々だけだが、こうも妹のことになった途端に表情をころころと変えて饒舌に語り出したりするなんて、世間の人々は思いもしないだろう。


むしろ、宮廷では第一皇子と白雪公主は仲が悪いとまで言われている。

公主の特殊な体質に加え、たとえどれほどの美姫だと言われようとも、母を亡くし皇帝から疎まれている公主には後ろ盾など無い。

そんな公主と第一皇子が近しいと知れれば、どんな権力争いに巻き込まれるか分かったものではなかろう。

だから志耀は敢えて最愛の妹である公主との不仲を否定しないのだ。


「明日には終わらせておく。少し待て」


「はい。……それと、そのことでひとつよろしいですか」


「なんだ。申せ」


ためらいがちにそう尋ねた黎心に、志耀はそれが分かっていたかのように平坦に言葉を返した。

公主と共に真実の欠片を拾い集めるうちに、黎心は『あること』を思い出したのだ。

それはほんの僅かな記憶だったが、決して見過ごしてはならないものだった。


「公主様は主犯が泉郷州に縁のある人物だと判断されたのですが、翠玲の出自が泉郷の『かく』という商家かどうかを調べて欲しいんです」


「やけに具体的だな。そこまで目星がついているのなら、私に頼む必要はなかろう?」


「いえ、確信は持てないのですが……ずっと前に、静影が泉郷の商家についての話を教えてくれたんです」


まだ宮廷の方士になる前のことだった。

鍛錬に励む日々の中、ある夜、彼がふと話したことだった。


「柳家は許されざる過ちを犯したのだと」


一瞬の静寂の後、志耀は黎心をちらりと一瞥した。


「……それは、狼の話か」


黎心ははっと弾かれたように顔を上げる。


「知っておいでなのですか!」


「当たり前だろう、私の部下なのだから、お前たちのことは全て把握しておるわ」


ふんっ、と偉そうにふんぞり返って言う志耀に、それは自分のことも含まれるのかとちょっと怖くなりつつも、確かにこの人ならば知っていて当然かと納得する。

志耀と初めて会った時、彼はまだ黎心が名乗ってもないのに名前と来歴を言い当てたのだ。

あの時はまるで特殊な力で見通したかのように思えたが、後々に志耀がたとえ自分の部下となる相手でさえ手放しでは信用出来ないから入念に調査を行っていただけだと分かったが、彼の性格なら柳家の秘密のひとつやふたつ握っていてもおかしくはなかった。


志耀が信用しているのは、公主とその侍女、その墓他は一部の部下と彼の隠密のみ。

その一部に自身が含まれているのは果たして幸か不幸か。


「まあそんなに心配するな。言っただろう、全て公主に任せるが良いと」

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