第5話

「ふぁ……」


眠い。とてつもなく、眠い。

夢の世界から戻ってきた公主を待ち受けていたのは、強烈な眠気と疲労感だった。

なんとか起き上がったものの、視界がぐるぐる回りだす。

ばたんと寝台に倒れ込んで、そのまま公主はすぅすぅと穏やかな寝息を立てはじめた。


夢術を使った後はいつもこうなる。

眠っているわけではなく常時頭は働いているのだから、公主のしていることは徹夜と何ら変わりない。

事件のこと、謎の子供の声など調べなくてはならないことはたくさんあるが、まずは休息からだ。


が、公主は眠りについてから数刻も経たないうちに目覚めることになる。


「公主様!公主様はどちらにおられますか!」


外から聞こえてきた、公主を呼ぶ黎心の声で目を覚ましてしまったのだ。


「う、うるさい……なんてうるさいのだわ」


というより、彼の回復力が信じられない。

夢の中に惹き込まれるのは初めてであろう彼なら、公主の倍以上は不調をきたしてもおかしくないはず。

それなのにもうここまで来てしまうなんて。


「おはようございます、黎心さま。朝からお元気ですねぇ。さあさあこちらに座ってお茶でもどうぞ」


公主の代わりに瑠珠が対応してくれた。

瑠珠は今日も春のそよ風みたいにのんびりにこにこしている。


「すまない、公主様はまだお目覚めでは無いのでしょうか」


「ええ、こういう時はお昼ごろまではかかるかと思いますよ。黎心さまもお疲れでしょう、少し落ち着かれたらどうでしょうか」


「いや、しかし……」


瑠珠は公主の事情はよく知っている。

そのため、黎心に対する親切心を含みつつ少しでも黎心を足止めしてくれようとしてくれているのだが、黎心はそう悠長にはしていられないという様子だ。

気持ちは分かるので責めるつもりはない。

今こうしている間にも柳静影はあの夢の中に囚われているからだ。


「黎心。身支度をするから少し待っていなさい」


二度寝する気にもなれず、仕方なしに公主は起き上がった。

公主の言葉を聞いて、衝立の向こうから瑠珠がたたっと小走りで駆け寄ってくる。


「おはようございます公主様。いつもよりうんと早いお目覚めですね」


「ええ、そうね……ふゎぁぁ」


一際大きいあくびをすれば、瑠珠がくすくす楽しそうに笑った。




「公主様、昨夜のことなのですが」


顔を合わせるなり黎心は勢いよく詰め寄ってきた。

公主は焦らず瑠珠のようにのんびりと微笑む。


「夢の世界はどうだったかしら。初めてにしてはずいぶんと面倒な世界だったけれどね」


「静影を救うには現実に戻らなければならない……あなたはそう仰いました。どのようにするおつもりなのですか」


黎心はそう言いながら、公主に木製の小さな札を渡す。

昨日、公主が柳静影の夢に入るために使用したものだ。

わざわざ持ってきてくれたらしい。


「あら、気が利くわね。まあ落ち着きなさい。やらなければならないことはいくつもあるわ。まずあの世界についてよ」


そう、公主たちが事件解決のためにしなければならないことは本当にたくさんある。


ぐうたらすることを何よりも大切にしている公主にとって耐え難いほどに。


「夢というのは夢の持ち主の記憶に左右される。あの建物が夢の持ち主の生家であるか、縁のある場所なのは間違いないわ。だからまず、夢の元になった場所がどこにあるのかを探すの。そうすれば、その土地に縁のある妃か宮女、もしくは他の誰かに行き当たるはずよ」


その人物こそが夢の持ち主であり、柳静影が襲われた事件に大きく関わっているであろう。


「しかし、探すといってもずいぶん手がかりは少ないと思われますが」


「朽ち果てた外見に惑わされてはいけないわ。そこに散らばった細かな欠片を繋ぎ合わせると、自然と見えてくるものがあるはずよ。そうね、例えばあの屋敷の大きさとか」


「あれほどの大きさの造りなら、所有者はかつて裕福であったけれど、何らかの事情により屋敷の維持が出来ないほどに貧しくなってしまった?もしくは、亡くなったかまた別の事情があるか……」


「いずれにせよ、一つ目の候補として昔は裕福であったけれど落ちぶれてしまった家の子孫が挙げられるわね。月照宮に関連する人物にそういう人がいるかを探しましょう」


「分かりました。調査に必要な人員はこちらで手配します」


もとより彼らは月照宮の人々について探りを入れていたのだから容易いことだろう。


「他にも、庭に植えられていた花も気になったわね。あの薄紫の牡丹、この辺りで見るものと少し違うような気がしたわ」


荒れた庭の中でも、色褪せることなく咲いていた牡丹。

皇都で見るような牡丹は赤や桃色のものが多く、こちらではあまり見かけないような色彩だった。

公主の話を聞いた黎心は少し考えてから、何かを思い出したようになる。


「薄紫……ああ、あれはきっと泉郷せんきょう州の牡丹ですね。泉郷牡丹は美しい紫色が有名で……ああっ、そうか!」


黎心はガタッと勢いよく立ち上がった。

それとなく公主が示したものに気づいてくれたみたいだ。

公主は涼し気な顔で頷いた。


「あら、泉郷の花だったのね。私は世間知らずだから分からなかったわ」


「泉郷州の邸宅にはよく植えられている牡丹です。泉郷牡丹の見事な薄紫はあの土地の独特な気候により生み出されるものですから。さらに、泉郷は水源が豊かな為に大きい池を設けるのもよく見られます。あの屋敷にも濁っていましたがありましたね。夢の持ち主は泉郷出身の可能性が高いでしょう」


であれば後は、条件に一致する人物を洗い出すのみ。

出身地と経歴が分かれば、そう難しいということは無いだろう。

その人物が静影を後宮におびき寄せた人物だとすれば、すべてが繋がるはず。

あとは彼ら方士に任せて、公主は待つのみだ。


「黎心は物知りね。泉郷には行ったことがあるの?」


当然だが公主は泉郷に足を運んだことはない。

外へ一度も出たことの無い公主は、泉郷どころか皇都すら知らないような有様だ。

公主が行ける場所といえば、この後宮か夢の中だけ。


「それほど縁深いわけではありませんが、何度か足を運んだことはあります。親類が泉郷にいるので、それぐらいでしょうか。……ああ、そういえば静影が……」


「どうかしたの?」


最後の方が小さくて聞き取れなかったと、公主は首を傾げて黎心の顔をのぞき込む。

黎心は少し迷ったように目を逸らしてから、首を横に振った。


「いえ、なんでもありません。それより、公主様はいつもあのように夢の世界へ?」


言うまでもない、誤魔化された。

けれど公主は、黎心に話すつもりがないのならと追及はしない。


「呼ばれれば引き寄せられることもある。呼ばれずとも無意識に向かうこともあれば、昨夜のように導線を繋ぐこともある。要するに、恥を忍んで言えばあまり私自身の制御は効かない代物なのよ」


普通に眠りたくても、知らない誰かの夢に誘われてしまう。

それゆえに公主は朝や昼に眠る不規則な生活を送らざるを得ない。

自分の自由が効くようなものだったら、こんな力はさっさと消してしまいたかったのに、今の公主にはそれが叶わなかった。

そう。あの日、この力を手にした時からずっと。


「まあ、望んで手にしたものでもないし、持て余すぐらいがちょうどいいわ」


公主は悠々とした表情だが、黎心の顔に陰りが見えた。


「……公主様がその力を得たのは、十一年前の件ですよね」


「ええ、そうよ」


「十一年前から、あなたはいつもあんなことをしていたのですか」


公主はこくりと頷いた。


「そうね。別に同情はいらないわよ。どうせ普通に寝られるようになったところで昼間にすることなんてないもの」


きっと黎心は、公主があの力で苦しんでいると思っているのだ。

公主が他人の夢に迷い込み、危険な目にあったことは少なくはない。

けれど、それは黎心の思う程悲惨な経験というわけでもなかった。

事情を自ら隠しているために黎心は知らなくて当然のことで、彼が憂いを感じる必要はどこにもない。


「それに、案外夢の世界も悪いものじゃないのよ。私はここから出してもらえないけれど、夢の中ならどこへだって行けるもの。外国の風景だって眺められるし、綺麗な海だって見に行ける。もちろん、皇都の中を自由に歩いたって誰にも怒られないのよ。それってとっても素敵じゃないかしら」


そう語る公主の瞳は、年相応の少女らしい輝きが宿っていた。

公主は後宮から出ることは出来ない。

皇帝が公主を疎んでいるし、公主も人目に触れることを疎んでいるからだ。

だが、夢の世界なら公主がどこへ出歩こうが止められるものはだれもいない。

むしろ、止められるものなら止めてみろと言ってやりたいぐらいだろう。


「公主様……。そうですね、確かにそれはとても面白い」


黎心もだんだんと表情を崩して笑ってくれる。


「どこに向かうかも分からないのだから、毎日行き先の分からない旅みたいなものよ。実在しない場所に行くことだって少なくないわ」


それから公主は、あれこれと今まで見てきた夢の世界について語りだす。

春の訪れを祝う祭りで賑やかな皇都。

一面に蓮の花が浮かぶ透き通った湖。

太古の時代から存在するような深い緑の森林。

黎心も相槌を打ちながら、楽しそうに聞いてくれる。

それは子供の空想話に付き合っている、というよりも公主にはなにか素敵な冒険譚を聞いているかのような表情に見えた。


瑠珠以外の人にこんなにたくさん話したのは久々だった。

不思議な嬉しさを抱えつつも、話しているうちに公主にはふと、気になることができたのだ。


「ねぇ、黎心の行きたい場所はどこ?私に教えてくれないかしら」


「俺の行きたい場所、ですか……」


「どんなところでもいいわ。現実にあってもなくても、どんな場所でも」


少し間を置いてから、黎心は躊躇いがちに口を開いた。


「……俺は、『氷淵海』ですね」


その海の名は公主も知っている。

瑞花国のとある伝承に登場する場所だ。


「大陸の北側、その先にあると言われている絶海。氷に覆われた海の果てに空と海の境界が混ざる場所……。おとぎ話ですけれど、本当にあったらきっと美しいでしょうね」


遠く美しい静かな海。

多くの人々が追い求めた伝説であり、辿り着けた者が本当にいるのかすら分からない。

だからこそ、そこで見られる光景は想像を絶するものなのだろう。


「ええ、そうね。きっとそれは、どんな宝物よりも美しいはずよ。いつか見に行けるといいわね」


「この世のどこにもないのに?」


「そんなことないわ。絶対に無いわけじゃないんでしょう。生きてさえいればいつか出会える可能性は誰も否定できないわ。それに、夢の中なら『氷淵海』は見えるかもしれないわね。本物ではないけれど、誰が夢見た海もまた美しいと思うの」


もっとも、黎心の夢に入れば、彼の思い描く『氷淵海』が見られるかもしれない。

そう言いかけて、結局やめた。

むしろ、そこが一番確率が高いような気がしなくもないが、公主の口から言うのは野暮だろうと思ったのだ。

だって、彼の夢は彼のものだ。


「夢の中ならば……そうですね。公主様の仰る通りです。いつか俺の夢にも出てきて欲しいですね」


黎心はそう言って、朗らかに笑った。



​───────​───────



「案外、黎心様ならばすぐに夢に見られると思いますよ」


帰り際、黎心を見送るといってついてきた侍女の口から出た言葉は、黎心の思いがけないものだった。


「それは、どういう……」


「公主様と同じように夢を渡る事が出来たあなたには、きっと素質があると思うのです。夢を見る素質が」


いつものんびりとした口調で喋っている瑠珠という名の彼女だが、この時ばかりは少し雰囲気が違って見えた。

なんだかやけに真面目な顔をしてそう言うのだから、なにか思うことでもあったのかと気がかりになる。


「……しかし、あれは本当に偶然起きたことで」


瑠珠は黎心の言葉を遮り、くすりと笑った。


「偶然ではなく、必然かもしれないじゃないですか。公主様のように夢を渡る人は、今回で初めて見たのでしょう?今まで試したことがなかったからで、本当は黎心様にも力があったのかもしれません」


「それはありえませんよ。仙女の力を持つものは黎家には誰もおりません」


「だとしても、そうだとは限りません。だって、仙女の子孫は今もこの国の各地にいるかもしれないんですから……」


「え?」


​──────今、彼女は何と?


まるで、瑠珠が他の誰かに見えたような気がして黎心は反射的に立ち止まる。

だがそう思った束の間、瑠珠は黎心からの疑いの視線を慌てて否定した。


「って、公主様が仰られていたのですよぉ。黎心様には仙女の血が流れているのでは、と。そう考えたらとっても不思議でわくわくしますよね」


「あはは、それはどうでしょうか」


彼女の無邪気な笑顔につられて、黎心も安心するように笑った。

公主の言葉を借りたせいなのだろう。

無垢で幼い少女のような瑠珠の声が、大人びた女性のように聞こえてしまった。


そんなはずは無いのに、もしや自分は疲れているのだろうか。

きっと、思っている以上に夢の世界に入ったことの負担がかかっていたのだろうと、黎心は自分を納得させた。

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