第3話
公主が『死』というものを知ったのは、彼女が五歳の時の話だ。
公主の母は、位の低い妃だった。
見目が美しいだけで運良く後宮に入ることができただけの下級妃、周りからそう認識されていた彼女が皇帝の子を授かったことで状況は一変する。
彼女と親しくなり自身の勢力下に入れようとする者、嫉妬に狂い彼女を害そうとする者。
様々な思惑が彼女を取り巻く中、生まれてきた娘は健やかに育っていった。
母親譲りの美しい黒髪に白磁の肌。
幼いながらも将来が期待されるような子供だったが、公主の道はある日突然閉ざされることになる。
「公主様の誕生祝いに、特別に仕入れた果実を献上しましょう」
公主の母と親しくしていたとある妃が、公主の五歳の誕生日にとある果実を贈ってきた。
赤くて丸いつやつやしたそれは、林檎だった。
この国で食べられている品種よりも大ぶりで、皮の赤色が鮮烈な印象を付ける。
その妃が言うには、彼女の親がわざわざ西洋から仕入れてきた品だそうで、公主の母は大喜びで林檎を娘に食べさせた。
それに毒が入っていたとも知らずに。
瑞々しい果実の中に仕込まれた毒。
それはすぐに公主の肉体を蝕み、苦しませた。
「たかが外見が美しいと持て囃されているだけで陛下の御子を授かるなど、身の程を思い知れ」
後に捕縛された妃は、そう吐き捨てたという。
皇帝はこの件に怒り、すぐにその妃を処刑してしまったのでそれ以上の詳しいことはもはや闇の中だ。
誰もが公主の死を覚悟したが、結果としては公主は三日三晩死の淵を彷徨い、奇跡的に回復した。
しかし、目覚めた公主は以前の公主とは決定的に違っていたところがある。
「ずっとだれかの夢の中にいたの」
そう言いながら欠伸をした公主に、医者は唖然とした。
眠っている間、公主は眠ってはいなかった。
最初は夢を見ているのだと思ったが、知らない景色に知らない人々が目の前に映り、それらは公主のことがまるで見えていないようだった。
そうしているとまた違う景色が始まり、今度は知らない街の中で一人きりで。
これが自分の夢だというのなら、どうして自分の思い通りにならないのだろうか。
これは、自分の夢では無い。
誰かの夢だと気づいたその時、目が覚めた───────。
公主はたどたどしくそう語ったが、次から次へ知らない夢の中を彷徨っていたというのはにわかには信じ難い話だ。
公主の母を含めたほとんどの人が毒物による影響だと涙したが、ただ一人、顔色を変えた者がいた。
それは、この国の主であり公主の父である皇帝だった。
「我が娘は、もはや我が娘などではない」
他者の夢の中から夢の中へ、次から次へと渡り歩く。
当時の幼い公主にはその現象が何であるかを知らなかったが、すぐに理解することになる。
書物に記された話によれば、かつてこの国に存在したとされる、ある仙女がそのような術を使っていた。
他者の夢を渡り、夢の世界を意のままに操る仙術、夢術。
仙女は既に亡くなり、夢術は失われた。
彼女に弟子はおらず、血縁も無ければ受け継ぐものは誰もいない。
書物にはそう記されていた。
だが今ここに、失われたはずの夢術と同じ力を持つ娘がいる。
仙女の生まれ変わりか、もしくは、文献には記されていないところで密かに受け継がれてきたのか。
所詮紙に残された伝承など、磐石ではない。
仙女の行く末の真相は今となっては誰にも分からないが、ただ一つ言えることは、公主は人ならざる力に目覚めてしまったということだ。
皇帝は公主を恐れ疎み、その存在を周囲から秘しようとした。
公主の母も唯一の支えであった皇帝の心が離れたこと精神を病み、やがてそのまま儚くなる。
公主の存在を世間から隠すため、公主は病を患い外を出歩くことさえできなくなったと発表されたが、公主もそれを受け入れ表舞台から姿を消した。
真相を知る人は極わずかで、今となっては数える程しかいない。
しかしその結果、噂が独り歩きして『後宮の奥深くには美しく病弱な姫君がいる』と言われるようになってしまったのは公主にとっては誤算だったが、父王は公主が大人しくしている限り、それについて言及さえするつもりもないのだろう。
こうして、後宮に眠る白雪公主の話が出来上がったわけだが、実際には公主は後宮の中に留まっているだけではない。
夜が来れば、後宮にも夢を見る人々で溢れる。
公主は日が沈む度に、その夢に誘われるまま、まやかしの世界を歩き続ける。
そして今宵もまた、白雪公主はある者の夢の中へ───────。
──────────────
「で、なんであなたがここにいるのかしら」
吹き荒れる轟音の中、公主はばったり出くわした人物にそう言った。
背後ではどおんっと壁が大破し、衝撃波で辺りはすっかりめちゃくちゃに。
「それはこっちが聞きたい……!ああもう、とにかく早くこっちへ!」
悠長に歩いていた公主を有無を言わさずに抱き上げたのは、黎心だ。
彼は公主の質問に答えず、たんっと軽やかに地面を蹴ると凄まじい速さで駆け抜けていく。
風が公主の長い髪を乱し、袖ははためく。
公主が纏う、あの部屋と同じ甘い香の香りがふわりと漂った。
黎心の腕の中で揺られながらもその手つきは優しいもので、なぜだか安心してしまいそうな自分がいる。
こんなだだっ広いだけでぐちゃぐちゃの廃屋を駆け回れる黎心の体幹が、公主には信じられなかった。
後方からは公主と黎心を追いかけるように、地響きのような大きな足音が近づいてくる。
公主はちらりとそちらに目をやると、砂煙の中から次第に大きな影が浮かび上がってきた。
「まだ追ってくるのね。それにしてもずいぶん広い場所だわ」
「黙って!舌を噛みますよ!」
「……ん!」
むっとしながらも公主は口を噤む。
黎心は勢いのままに廊下の窓を蹴破り、庭の回廊らしき場所へ着地した。
ガシャンというけたたましい音に公主はぎゅっと目を閉じたものの、公主や体には傷一つない。
黎心は『奴』がまだ追いついていないことを確認してから、ようやく外壁の影で公主の体を降ろした。
「ふぅ……あなたって意外と大胆なのね」
「あんなのに追いかけられたらそりゃ必死になりますよ。まったく、一体なんなんだアレは……」
あんなに走ったはずの黎心は軽く息を整えただけで、すっかり平気そうだ。顔色以外は。
「まずは状況を整理しましょう。このずいぶん悪趣味な世界は柳静影の夢の中で、来て早々になんだかとんでもない化け物に私たちは襲われてる」
黎心は頷く。
ここは形だけはどこかの豪奢な屋敷を模したのだろうが、ここが栄えていたのはもう何十年も昔のように、砂と埃が積もる荒れ果てた大きな廃屋だとしか言えない場所だった。
薄暗い世界を、欠けた月の光だけが照らしている。
屋敷の中には朽ちた柱や崩れた階段、ぼろぼろの家具などが残されているだけで人がいた痕跡は無い。建物の装飾に使われていたのであろうところどころに落ちている菱形の飾りが、妙に印象深かった。
夢の中だけあって、外観よりも内部の構造が不自然に広すぎる。
中庭と思しきここも、一切の手入れがなされていないように雑草が伸び放題で、牡丹の花などが見えるものの荒れ放題で剪定されていない。
池の水も濃い緑色に濁っていて、長年の汚れが蓄積している。
唯一目を引くものがあるとすれば、あの化け物以外ないだろう。
「あの『幽鬼』、相当に変質しているわね」
「幽鬼なら何度でも見たことがありますけど、あんな捻じ曲がった化け物を見たのは初めてですよ」
大きな黒い狼のような姿をした化け物。
図体こそは獣のようであっても、その中身は人間の魂である。
一目見てすぐに気づいた。
あれはただの狼では無い。
幽鬼となった魂が、その姿をあのような凶暴な獣に変質してしまったのだ。
方士の黎心もそれは察してくれていたようだが、あれは現実世界とは存在の根底そのものが違うもの。
簡単にねじ伏せられるわけではない。
そういしているうちに、また遠くで足音が響く。
俊敏ではないものの、奴はゆっくりと着実に近づいてきている。
「夢というのは、こんなに厄介なものなんです?」
「人によるわ。夢は過去を投影するもの、夢の持ち主の脳内が世界に反映されるのよ」
これまで様々な夢を巡ってきたが、のどかで平穏な夢もあれば、豪雨と雷で荒れ果てた嵐のような夢もある。
今回の夢のように化け物に追い回されることだって無かったとは言いきれない。
「でもあなた、大胆なだけじゃなくて結構落ち着いているのね」
「踏んできた場数の多さには自信があるので」
まあ、さすがに夢の世界は初めてですけれど、と彼は付け足して苦笑する。
「ふぅん……。それであなた、どこから来たの?」
「どこから、と言われても俺には分かりませんよ。昼間に公主様にお会いしてすぐ、俺はあなたの仰られた通りに静影の枕元に札を置きました。それからずっとその場で観察していたのですが」
公主は思わず黎心の言葉を遮った。
「ちょっと待って。昼からずっと?今、外は深夜よ?」
「はい。ずっとそこで見ていました。それで……」
「あなた暇なの?」
「いいえ、暇ではありませんよ。これも俺の仕事ですから。で、そうしているうちに札が怪しく光はじめたので、力を使いながら触れてみたところこの世界に飛ばされた次第です」
二度も遮られた黎心は一息に全て話し終わる。
黎心の主張によれば、どうやら彼は公主の夢術に無理やり割り込んできたということだ。
何時間も眠る柳静影の前で観察しながら、だが。
公主は頭を抱えたくなった。
兄のお気に入りの部下は、ひょっとするとなかなかの変人かもしれない。
いくら仕事とはいえ、正体不明の術に強引にに割り込んでくる豪胆さには感服してしまいそうだった。
だがしかし、果たしてそんなことが可能なのだろうか?
公主自身でさえどうして仙女と同じ力に目覚めたのかも分かっていないというのに、夢を渡ることが彼にもできた理由なんてもっと見当がつかない。
「意味が分からないわ……。とにかく、あなたは今すぐ目を覚ますの。ここにいてはいけないわ」
「何故です。公主様をこのような危険な場所に置いていけるわけがありません」
「わざわざあなたに守って貰わなくても結構よ。大体夢の中ではあなたにできることなんて……っ!」
瞬間、浮遊感に包まれる。
ぱっと下を向くと、『奴』が攻撃してきた勢いで公主たちの背後にあった壁がばらばらと派手に崩れていた。
瓦礫はそのまま濁った池へ落ち、水しぶきがいくつも上がる。
「これでも無能だとお思いで?」
黎心は軽やかに屋根へ降り立った。
どんな脚力だ。
阿呆みたいな設計の体をしているんじゃないかと思いつつ、いっそこの際黎心を手足とすれば楽じゃないかと気づく。
「……少しだけよ。黎心、建物の中に向かって」
「仰せのままに!」
公主を抱き抱えたまま、先程と同じように真下にある窓を蹴破って強引に室内へ入る。
公主は黎心の腕の中で揺られながら、落ち着いて次はどう行動すべきかを考えた。
夢を渡る時に夢を見ている本人以外の他人と一緒にいることは無いので、なんだか新鮮に感じられ、こんな状況でもかえって冷静になれそうだった。
「そのまま走って。一番最初の場所に戻るの」
あの化け物はさほど目が良くないのか、こちらを見失ったようでまだ追いかけてこない。
しかし、すぐに壁を破壊する音が聞こえてきて勘づかれたのを察した。
「私たちの匂いに慣れてきたのね」
「目眩しを使いますか」
「いえ、下手に術を使うとかえって刺激してしまうわ。とにかく今は柳静影のところへ行きましょう」
今更気配を消したところでこの異空間では効力を発揮しないだろう。
しばらく走ったところで、開け放たれた扉の前にたどり着く。
向こうは広い部屋のようだが、妙に鼻を突く臭いが漂っていた。
「この先ね」
黎心の腕から降りた公主が、ゆっくりと歩いていく。
意味は無いだろうが、念の為扉は閉めておいた。
ここも菱形の装飾で飾られていたが、色褪せたそれに輝きは無い。
青白い月明かりが照らし出した影は、公主と黎心、そしてもうひとつ……。
「静影……!」
そこに倒れていた人物に、黎心は一目散に駆け寄った。
間違いない。
黎心の同僚であり、怪事件の被害者とされる方士の青年、柳静影だ。
「おいっ、大丈夫か!」
黎心が静影の体を抱き起こすも、呼び掛けに反応は無い。
怪我はしていないようだが、まるで死んでいるかのように静かに眠っている。
だか周囲にはおびただしいほどに赤黒い血が広がっていて、ツンとした鉄の臭いを放っていた。
「ここへ来た時、まだ静影の姿はなかったはずだが……」
夢の中に来てすぐあの狼に追いかけられたのだから、静影も同じ場所にいたとすれば無事ではすまないだろう。
尚且つ彼はこんなに無防備な状態だ。この様子では武器も身につけていないのに戦えるわけがない。
辺り一面もべっとりと血液でまみれていて、ここで惨劇が起きたことは確実だ。
それなのに、彼は一切の外傷もなく穏やかに眠っているよだ。
静影は一体どのようにして被害を免れたというのだろうか。
戸惑う黎心を前に、公主はただじっと静影の横顔を見つめた。
「いいえ、あったけど気づかなかっただけよ」
「気づかない?そんなはずは……」
公主はためらわずに口を開く。
「そんなの決まってるわ。再生したのよ、その男」
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