第18話 アプレゲールと呼んでくれ 39

 ルーシーと円にとっては想定外の爆弾発言を、夏目がサラッと口にする。

夏目が自分達の秘密を知っている!

ルーシーが小刻みに震え始めたのが、円にも背中越しに分かる。

後ろから抱きしめるために胸の所で組まれていた彼女の手に、円はそっと自分の手を添える。

 「長く生きてはきましたけどね。

俺には今まで女に対しての執着心なんて、これっぽっちもあったためしがないんです。

・・・毛利さん、だからあなたは俺にとって運命の女なんですよ」

夏目は自嘲的に唇を歪める。

「きもちわるい」 

ボソッとつぶやくルーシーと、夏目が晒した斜め下からの発言に驚く円である。

だがそんなふたりを置き去りにして、夏目の一人語りは更に続いた。

 恋情の吐露にしては熱に欠ける夏目の口ぶりに、ふと円は苦し気な違和感を感じる。

この一人語りの結末の果てに本題が待っているに違いない。

円は夏目の口調に直感的な確信を抱いたのだった。

 

 夏目は床屋を出ると、女を置き去りにして急ぎ東京に戻った。

全財産は現金と数冊の預金通帳である。

それらは全て懐の内にあったので、旅支度も宿にそのまま捨て置いた。

夏目は馴れ親しんだ新宿には足を踏み入れず、大久保にあったやさにも戻らなかった。

色々な不都合を積んできた新宿を出る。

夏目は強い決意を固めていた。

 髭を剃った夏目の風貌はがらりと変わっている。

だがそれでも起きるかもしれない“もしも”をおもんばかる。

箱根からの帰京には、小田急ではなく国鉄を利用したほどだ。

 夏目はこの時点で金銭だけは潤沢に持ち合わせている。

おかげで東京の郊外に居を移すことに何ら困難を感じなかった。

金に糸目をつけずに体裁を整え、学生という触れ込みで賄いのない下宿屋を捜した。

頃合いの物件を見つけると、夏目はそこで新たな生活を始めた。

 実は夏目には長く温めていた構想があった。

だがそれをどう実現すべきかこれまで考えあぐねていたのだった。

予期せぬ若返りは、長年の懸案を果たすためにはこれ以上ないと言う好機を、夏目にもたらすこととなる。

 

 夏目の長年の懸案を語るため、話は戦争前に遡る。 

夏目は自分の身に突如起きたその不思議な能力の発現に、旧制中学の五年の時に気が付いた。

旧制高校を受験する年だった。

 最初は自分の頭がおかしくなったのかと、恐れおののいた。

何しろ、ある日学校から戻り自分の部屋に入ると、そこに裸の男が立っていたのだ。

それだけなら、変質者の薄気味悪い嗜好を、警察に訴え出れば事が足りたろう。

ところが不審者に動転した夏目が悲鳴を上げる間もなく、その裸の男は煙を吹き払うように姿を消したのだ。

 さらなる驚きは、男が消えた直後、脳裏にいきなり浮かび上がった映像記憶だった。

襖を開けてびっくりしている自分の姿が、まるで自らの記憶の様に脳裏に蘇ったのだ。

びっくりしている自分は、鏡に写った姿ではない。

室内から開いた襖の方を見た情景であり、明らかに裸の男の視点である。

なぜなら。

『突然開いた襖の向こうに自分がいる!』

映像記憶には、裸の男に生じた驚愕もセットになっていたからだ。

 開けた襖の室内外から、互いに自分の姿を同時に視認してびっくり仰天する。

奇妙で不可思議な、別々の視点で刻まれた記憶の併存がそこにあった。

そうなると、視点の異なるふたつの記憶の主体は夏目総司自身としか思えず、恐れはやがて戸惑いに変わった。


いきなり裸で部屋の真ん中に立つ自分を見て驚く。

いきなり襖を開けた自分の姿を見て驚く。

裸の自分が消えると、二人の驚きが残された自分に併存して残る。


裸の自分はそこに居るという、自身の確かな認識もないまま姿を消した。

そして短い刹那の記憶だけが、まるで転写されるように襖を開けた自分の中に宿ったのだ。

なんだか気が変になりそうな状況だった。

 だがそうした怪現象が十回以上も繰り返されれば頭も働くようになる。

分析する自分と裸の自分が同じ自分であることが、単なる仮定から自明の理となったのだ。

 

 夏目はハインリッヒ・ハイネの「帰郷」の中の一編や、ポーの「ウイリアム・ウイルソン」、芥川龍之介の「二つの手紙」を思い出していた。

各作品に共通するモティーフはドッペルゲンガーである。

同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象を言う。

 創作された物語として読むには面白かった。

だが中学生程度の物理の知識ですらドッペルゲンガーと言う存在は胡散臭い。

荒唐無稽にひとまずは目を瞑るとしてもどうだろう。

その質量だけに注目したところで宇宙の法則に反するのは確実だ。

ましてやドッペルゲンガーの消失時にその記憶が本体に転写されるのだ。

旧制高校の理科を志望する少年としてみればである。

本来なら思考実験にすら値しない愚劣で馬鹿らしい設定である。

もしこれが自分の身に起きたことではないのなら、夏目はそれこそ一笑に付したろう。

そんな馬鹿げたことを言いつのる人間を、精神に異常をきたした可哀そうな人としてあしらったろう。

 

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