第18話 アプレゲールと呼んでくれ 38

 夏目は女を宿に返し、金文字があしらわれた理髪店のガラスドアを押し開けた。

椅子に腰を下ろし散髪ケープを付けられて、主人に整髪のオーダーを出す際のことだった。

夏目は椅子に座り鏡に目をやるまで、つゆとも考えなかった気まぐれを起こした。

終戦以来初めて、八年ぶりに髭を当たることにしたのだ。

髭を伸ばすことに、何か願を掛けていた訳ではない。

今日の命を長らえた後、明日の命を繋ぐために必死だったこともある。

 最初のうちは髭を剃るという日常的な営みに、思いが及ばないだけだった。

思春期の頃から、髭が濃いたちであることには煩わしさを感じていたものだ。

だが煩わしさを忘れしばらく放置しているうちに、髭は夏目の容貌をすっかり変えた。

ときおり鏡を覗けばどうだ。

戦争前には確かにあった屈託のない少年の面影なぞ、まったく見て取れなくなっている。

ただ、環境に適応して荒みきった自分の面差しを見つめていると、なぜか心が落ち着いた。

あれほど煩わしかった髭がそこにある。

そのことで、かえって奇妙な安心感を覚えたのは不思議だった。

 夏目は髭を剃るのを完全にやめた。

時折はさみで切り整える程度で放置した。

五月人形の鐘馗様ほどではないにせよ。

そこそこ強面の髭面が出来上がると、それは闇市で生きる夏目のペルソナとなる。

 今回上首尾に終わった取り込み詐欺は、朝鮮戦争の勃発を嚆矢として続く特需景気があればこそだった。

戦争で全てを失った夏目である。

皮肉なことに夏目の懐具合は他所の戦争のおこぼれで温まった。

だがそうした事実で胸蓋がれるナイーブさが夏目の中から失われて久しい。

 朝鮮戦争のお陰でもたらされた金銭的な余裕が、自分の容姿に目を向ける心の余裕に繋がった。

それはあったろう。

果たしてついぞなかった心の余裕が、夏目に髭を落とす気まぐれを起こさせたのかどうか。

そこの所は夏目自身にもよく分からなかった。 

 夏目はリズミカルな鋏の音が誘う微睡(まどろみ)から目覚める。

髪を切り髭を当たった一時は、幸福だった少年時代の夢を見ていた。

目を閉じ幸せの記憶が甦り。

人がましい気持ちを思い出した頃。

目を開けた。

夏目は驚きのあまり一瞬気が遠くなる思いに捕らわれる。

俄かには信じ難いものが目に入ったのだ。

鏡に映る顔が、三十間近のくたびれ切った男が持つそれではない。

磨き込まれた鏡面の内には若者がいる。

いや十代半ばと思しきどこか見覚えのある少年が、目を見開いて自分を見返している。

 床屋の主人も、夏目の物腰と髭の下から現れた相貌との乖離(かいり)にはさぞかし驚いたことだろう。

だが主人は余計なことは何も口にせず仕事を終えた。

 

 「さすがに驚きましたよ。

俺はいつのまにかに若返っていて、それからというもの、年を取らなくなったんです」

夏目は不思議に澄んだ瞳になる。

「何が目的かは知らないけど、駄法螺を吹くにしたってもう少し、もっともらしいシナリオを考えろよ。

ホント?

凄いねなんて僕たちが驚くと思う?

そこいらの洟垂らした、アニメと現実の区別もつかないようなガキンチョ相手にしてる訳じゃないんだからさ。

おまえってば、馬鹿ですか?」

今度は円も悪態をつけた。

「本当に失礼な小僧だな。

毛利さんもこんな躾のなっていない小僧は、早々に見限った方が御身の為と思いますよ?」

「わたしも大筋はマドカの忌憚のない意見。『馬鹿ですか?』まで同意。

荒唐無稽もそこまで来るとちょっと。

元ネタはドリアン・グレイかしら?」

円を抱きしめるルーシーの口調は、雪原を吹き抜ける北風の様に冷たかった。

「あなたたちがそれをおっしゃるとは。

俺知ってるんですよ?

毛利さんとそっちの小僧が空を飛べるってこと」

 

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