第15話 練馬の空はショーシャンクと同じくらい青い 10

 「怪しいものじゃありません。

と言っても信じては頂けないでしょうね」

晶子からすれば怪しさしか感じられない若い女が、口をつぐみしばし時を置く。

そうして意を決したのか。

或いは晶子の聞く準備を見切ったのか。

彼女は晶子に衝撃的な質問を投げかける。

「加納円と言う名前の男の子に心当たりはありませんか?」

晶子の脳裏に雷電のような閃光が走る。

無意識のうちに封止を掛けていた忌まわしさとおののきの記憶が蘇る。

同時に切なく痛い思いが胸の奥底から迸(ほとばし)り、晶子の思考と感情を満たしていく。

 

『それは自分の心に住み着いた少年の名前だ。

それは何度も聞かされたはずなのに、どうしても思い出せなかった名前だ』

 

ふたりの少女が誰であるのかも、晶子は一瞬のうちに了解した。

 

 白く表情を無くした顔(かんばせ)の面で、大きく見開かれた晶子の瞳からは涙が滂沱と溢れ出す。

暫くすると晶子は色を失った形の良い唇を震わせて、うわごとの様にただひたすらに「ごめんなさい」と言う言葉を小さく繰り返すままとなる。

その様子は憐れとしか形容できない痛ましさに満ちている。

さすがの雪美も戦意を失ない、不本意ながら生じた同情心に、己の目が少しく潤むことを抑えきれない。

冷静沈着を旨とするルーシーでさえも、事が予想外の感情的表象に進んだためだろう。

内心の動揺を隠しきれないようだった。

 

 「秋吉晶子さん。

後ろのお二方がどなたであるのかはもうお分かりですね。

私たちは晶子さん。

あなたに事の真相をお伝えしたくて、こうしてまかり越しました」

『ここはお任せを』と佐那子は言葉を失って立ちすくむルーシーと雪美にめくばせをする。

「あなたはあの時、死ぬおつもりでビルから飛び降りました。

そんなあなたが、どうしてかすり傷一つなく生き延びることができたのか。

あなたがとっさに嘘をついて冤罪に陥れた少年が、なぜ抗弁を受け入れてもらえないのか。

少年が明白な証拠すらないのに、単なる目撃証言だけでどうして罪を得て司法の場で裁かれなければならないのか。

そして、あなたを助けた少年が何者なのか。

時間が経って正気を取り戻したあなたは、おそらく自分の身におきた一部始終を冷静に考えられるようになったことでしょう。

やがてあなたは嘘をついて少年を陥れたことを後悔したに違いありません。

そうじゃありませんか?

けれども、おかあさまや弁護士、果ては警察や検察に、本当は何が起きたのか。

そのことをいくら訴えかけても、まるで相手にされなかった。

あなたはそれが不思議で仕方が無かったことでしょう」

佐那子が目を伏せいったん言葉を切る。

「あなたは嘘をついたことを悔やみましたか。

罪の意識であなたの胸は潰れそうになりましたか。

意地悪な言い方をしてごめんなさい。

・・・けれども、日に日にあなたの胸の内で大きくなっていく見ず知らずの少年の存在感は、どう変わっていきましたか。

それは罪悪感とは全く別物だったでしょう?

出会いを考えれば最悪です。

命の恩人に対するあなたの仕打ちもまるで人でなしの所業でした」

晶子の身体が震え表情も歪むが佐那子はそれを意に返さない。

「けれども、そんな要素がある訳はないのに。

そうであるのに。

あなたの心に湧き上がるのは、少年を想い慕う熱い気持ちばかりではありませんか?

その気持ちってなんだかお分かりになりますか?

よくお考えください。

私たちからの宿題です」

佐那子は口調を緩め、晶子に優しく微笑みかける。

「あなたが長年にわたって苦しめられてきた自殺衝動。

恐らく今現在、それもあなたからすっかり消え去っているはずです。

如何でしょうか?

あなたにとっては、拗れるばかりの状況も、ご自身の内心の変わり様も、腑に落ちない事ばかりでしょうが」

晶子が驚いたように顔を上げ、大きな濡れた瞳を更に大きく見開いて佐那子を見つめる。

「私たちならそんなあなたが抱え込む、数々の疑惑が生んだ魂の結ぼれを、分かり易く解きほぐして御覧に入れる事ができます」


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