第12話 「失敗したらやり直せば良いと思います」とお姉さんは微笑んだ 14
「なんでも、万平ホテルにはジョン・レノンが出没することがあるらしいですよ」
別荘地の路は野面積(のづらづみ)に似た低い石垣で私有地と区切られている。
ここには下界の住宅地ならどこにでも見られる塀や生垣の類はいっさい見当たらない。
雪美は路側の苔むした石垣の上に突然飛び乗ると、背伸びをしながら白くて華奢な手で眉庇(まびさし)を作り、前方をお茶目に偵察して見せた。
そもそも雪美は教室で過ごす時と、ルーシーを交えて行動する時では人が違ったかと思えるほどにキャラ変する。
この時は更に『おまえはひみつのアッコちゃんか』とツッコミを入れたくなる程にミーハー然としたはしゃぎぶりを見せた。
それは少女の可愛らしい所作以外の何物でもない。
けれども円が呆れたという表情を見せたことが癇に障ったのだろう。
雪美はすぐに石垣から飛び降りて円に駆け寄ると、容赦なくほっぺたをつまみあげる。
「マドカ君。
女には幾つもの顔があるものです。
御承知のように、こうして要あらばHR長然として即応できる『わたくし』も私ですし。
「ルーさん!マドカ君、生意気こいてますけど後で絞めて下さいね」
なんてお気楽キャラでリラックスするのも私ですよ?
もう先の準備室でお見せした大人びたペルソナも『わたしですわ』。
そして今日みたく、ミーハー的気分で軽薄かますのだって『あ・た・し・よ?』」
円は雪美の声色や表情、仕草の見事な変わりように、頬の痛さを忘れて思わず手を叩いて感嘆の声を洩らした。
「何をやってるんだか。
マドカもあれね・・・。
双葉さんの薫陶を受けている割には抜けてるわね。
ユキも純真な少年を余りからかうものではないわ。
だけど・・・そうね」
突然、空間そのものの質が変わった。
快活でありながら品のある詩画(しいが)に似た風趣が辺りを満たし、字義通り清涼な高原の風が吹き抜ける。
「・・・まどかさん。
ルーシーは少し疲れてしまいました。
早くお茶にいたしましょう」
ルーシーは円の二の腕に軽く触れる。
そうして、これまでふたりきりの時ですら決して見せたことのない、まるで妖精かと見紛う少しはにかみを含んだ透明な微笑みを浮かべる。
その後ルーシーは一歩後ろに下がって足を交差させると、円の目を見つめながら少し前屈みの姿勢をとって手を後ろに組み直し、小首を愛らしく傾げてみせる。
それが、ためにする演技と分かってはいても、円の心臓は早鐘を突くように拍動を増した。
口の中には唾液が溢れ、冷や汗が流れ出すと同時に顔のほてりも現れて、瘧(おこり)に罹った様な小さな震えが全身を襲う。
この状態が長く続けば、眩暈に襲われてお腹も痛くなることだろう。
となれば円はルーシーの足元ひれ伏して「勘弁して下さい」と、慈悲を乞い願うしか術はあるまい。
あたかもジョン・エヴァレット・ミレーが筆を執ったかのようなルーシーのテッパン美少女振りに、円は見事精神汚染を受けた。
精神汚染は円の自律神経を交感神経、副交感神経の別なくいきなり失調させたのだった。
普段は当事者にすら意識されることのない、ルーシーが持つ円に対する絶大な影響力の一端が垣間見えた瞬間でもあった。
円とすれば雪美に対しては、おそらくは佐那子に対しても、決して起きることのない情動の発現だろう。
「マドカ君。
相変わらずちょろいな」
雪美が悔しそうに下唇を噛んだ。
「冗談事では無く、森要のルーシーさんに対するあれほどまでの懸想と執着の根拠が今、完全に理解できました」
佐那子が毒気を抜かれたような真顔でつぶやく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます