第11話 綺麗なお姉さんは好きですか? 14
森要はルーシーを我がものとするため全知全能を傾けた。
だが奮闘も空しく教育実習が終わりに近付いたある日の事、一筋の光明が見えた。
出会いから一貫して終始迷惑そうで、険の立った表情しか見せないルーシーではある。
そのルーシーが、表参道でナンパに励む田舎者よろしく付き纏う森要に向かい、たまさか澄んだ微笑みで答えて見せる。
関心が無いばかりか、生理的な嫌悪感しか持てない森要のあまりのしつこさに、思わず苦笑を洩らしてしまった。
ルーシーにとっては単なる気の緩みが苦笑の真実である。
だが森要にはルーシーの苦笑が澄んだ微笑みにしか見えない。
“からっぽ”だった森要は、ルーシーの清真な笑顔が己の虚ろを隙間なく満たしていく充足感を感じた。
それはセックスを遥かに凌駕する快感だった。
信じられない程の喜びは、森要にほとんど生まれて初めて、人間らしい幸福感をもたらした。
当然のことながら産声を上げたばかりのその未熟過ぎる感情は、母親に献身をせがむ乳幼児と変わるところがない。
傍から見ればそれは、ただひたすらに渇望の成就をルーシーに求めるだけの、幼稚な駄々にすぎない。
感情の成り立ちは幼いものであるが憐れなことに、森要を構成するあれこれの要素は、とうの昔に大人になっている。
だからルーシーの微笑が森要の胸を満たす歓喜は、聖母子の間で共有される至福ではなく、ロダンの接吻に表象される性愛の快楽に近い。
とは言うものの、森要は切望して与えられる愛情の形を知らない。
そんな人間が母性への憧憬と異性への恋慕の違いを意識できたかどうかは分からない。
そもそも生まれてこの方森要は、母性への憧憬や異性への恋慕以前の問題として、他人はおろか親兄弟にすら全く関心が無い。
目の前の人間が自分をどう評価しているかと言ったことにも、ついぞ興味が持てない人生を送って来た。
それ故に森要が、ほとんど瞬時に信じ込み思いつめてしまった“ルーシーの愛情”が騒動の元となった。
ルーシーの苦笑が無ければ、森要も教育実習の終了と共に古巣へ戻り、お決まりの人生を続けたかもしれない。
あるいは、自分の意のままにならない人間もこの世には存在する。
そんな生まれて初めての大発見が何かプラスの方向への切っ掛けとなったかもしれない。
だが運命の神様はルーシーに苦笑をさせた。
ルーシーの苦笑を親愛と誤解しただけなのに、森要は自身の実存を新築する程の驚きと歓びを得た。
それは視覚を持たない者が印象派を知り。
聴覚を持たない者がショパンやドビュッシーを知り。
嗅覚を持たない者が薔薇の香りを知る。
そのことに匹敵する衝撃だったろう。
森要は、およそ五感から生じる欲求については、ほとんど上げ膳据え膳で過ごして来た。
そんな森要が、生まれて初めて自分へのアクションが無い女性に出会った。
生まれて初めて自分からアクションを起こした女性に相手にされなかった。
世間的にはたかがナンパではあるだろう。
だが生まれて初めて挑戦した身を粉にする努力と献身の結果、つれない女性がようやく微笑みを与えてくれたのだ。
森要の喜びはひとしおだったろう。
生き生きとした感情を手にした森要は、天真爛漫な子供のように初心(うぶ)だった。
森要はルーシーの嫌悪感に裏打ちされる苦笑を、全身全霊を掛けて獲得した好意と解釈した。
それは最早憐れを通り越して滑稽ですらある。
“やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅の秋の実に人こひ初めしはじめなり”
ルーシーの苦笑を勘違いした森要の脳裏に浮かんだのは、現代国語の教科書に載っている石川啄木の詩の一節だった。
その一節を口ずさんでみた時、森要は自分が広大な世界の片隅で生きていること。
自分が心許せる友も家族もいない本当の“ひとりぼっち”であること。
そのことに、まるで電撃に打たれるかのように思い至った。
森要は自分が、
“*有機交流電燈の一つの青い照明”
に過ぎないことを知ってしまったのだった。
*宮沢賢治:春と修羅より
誰しもが自覚しそれを抱きしめることで生きている孤独という灯は、身を寄せ合えば大きな光にもなるし高い熱も生む。
森要が生来持ち合わせる才能と能力は、あるいは無数の小さな灯を大きく明るい輝きに育て上げるためにこそ授けられたものかもしれない。
しかし、ひとりの無垢な青年を偉大な人間へと導いたかもしれない“ひとりぼっち”であることの自覚は、彼を妄想と執着の怪物に変化(へんげ)させた。
それは森要にとっての悲喜劇、毛利ルーシーにとっての惨劇の始まりだった。
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