第11話 綺麗なお姉さんは好きですか? 9


 次のターゲットをルーシーと雪美に再設定した森要は、爽やかな笑顔を残して屋敷の方へと立ち去った。

元々の頭の良さに加えて能力に目覚めて以来のルーシーと雪美のことだ。

普段からのふたりの言動を鑑みれば、むざむざ森要の毒牙にかかるへまをしでかすとは思えない。

だが、ふたりのポチである円としては何が何でも大急ぎで助っ人に馳せ参じねばなるまい。

橘女史の蘇生。

掛け替えのない朋輩達の危機。

そして我が身の失血。

円の頭の中で、取り留めの無い思いがぐるぐると渦を巻いては、泡沫(うたかた)のように消える。

 遠くの街灯の光が雑木林の輪郭を朧げに浮かび上がらせるばかりな暗闇の中、円の孤独な作業は続く。

いつものおちゃらけた円であればどうだろう。『きれーなおねえさんの唇を奪ってしまったぜ』程度のノリを焚きつけにして元気を奮い立たせもしたろうか。

だがこの作業については文字通り無念無想の境地へと徐々に傾斜し、既にマウストゥマウスの役得感はない。

 自発呼吸が再開するまで人工呼吸を続ければ蘇生する。

サイコパスな森要だが、サイコパス故にその言は信じられるだろう。

大切なふたりの友人を助けに行けず、自分の生命を投げ出して目の前の女性の救命を続ける。

それは円に取って最大限の苦痛を意味する。

森要はそう考えているはずだからだ。

 円の思考は浅い夢見に近い脈絡のなさであちらへ飛びこちらに飛ぶがどれにも意味はない。

すると無念無想とは眠りに落ちる刹那の境地に近いかも知れない。

円はただひたすらに、規則正しく橘女史に唇を重ねて息を吹き込み、胸の膨らみ具合を確かめ続ける。

 どれ程の時間が経ったろう。

失血のせいだろうか。

それとも息を吹き込むために深い呼吸を続けたせいだろうか。

円の意識は更に茫洋としてきてなんだか気持ちが良い様な具合になってきている。

だが橘女史の胸が軽い溜息のように動くのを見過ごすことは無かった。

待ちに待った自発呼吸の再開だった。

 円は息を吹きいれる回数を減らし、橘女史の自発呼吸の様子を確かめる。

するとこの状況を遠い場所から見てほっとする、もう一人の自分がいることを感じた。

円にはまるで自我が分裂したようなその感覚のおかしさが、すでに理解できなくなっている。

同時になんだか眠くて仕方が無い。

自分がこうして妙齢の女性に人工呼吸を施していることの現実感が、酷く薄れてきているのが不思議で仕様が無い。

 睡魔と戦いながら更にしばらく時間が経過すると、暗がりの中でも橘女史がポッカリ目を見開いたことが分かる。

『やっとお目覚めですかー。

僕はちょっと疲れちゃったんで一眠りしようと思います』

ぼんやり頭で一声かけようと口を開く暇があらばこそだ。

次の瞬間、橘女史はにへらと笑うといきなり円の首に抱き着く。

そうして太ももをこすり合わせながらラブシーンを演じる女優さんの様な喘ぎ声を洩らす。

先程来、ゲシュタルト崩壊の危機を感じる位な脅威体験が連続した円ではある。

だがことによるとこの時の驚きが一番大きかったかもしれない。

 『この眠気ってば永遠の眠りにつくってやつの前振り?

ちょっとやばくね?』

などと少し焦り始めていた大脳が、橘女史のご乱心で爆発的に覚醒する。

事態は容易ならざるものに違いない。

『橘さんったら、いきなり発情???んっなバカな』

橘女史の理解不能な行為がもたらす驚愕による衝撃波は、常世の渡世から足を洗いかけていた円のガイストを揺さぶり、失血による意識の混濁を吹き飛ばす。

 「た、橘さん・・・?」

そうして円は今ここにある現実を自己言及的に吟味した結果、シュレディンガーの猫宜しく、生と死のどちらとも言えない状態から生へと固定された。

箱の中に引きこもる猫だって、奇麗なお姉さんに誘惑されれば、自分が生きているか死んでいるかを自ら観測することくらいできるらしい。

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