第11話 綺麗なお姉さんは好きですか? 8
「痛い!
なにすんだクソ野郎」
円は左の太ももの後ろ側に鋭い痛みを感じる。
「本当に毛利さんには相応しくない野卑な小僧ですね。
こんな下品な輩の何処が良いのでしょう」
「大きなお世話だ。
このつきまといの変態ヤロー!」
森要が小さな溜息をつく。
「大きな血管は切れてませんからすぐに死ぬことはないですよ。
もっともその出血の具合では、早く止血して病院に行かなければ駄目かもですけどね。
橘二尉の自発呼吸が早く戻るとよいですね。
これって究極の選択になりますかね?
彼女の蘇生を続けるか、彼女を見捨てて自分の命を取るか。
その場所の止血は自分一人では難しいですよ?
それでも先に止血を試みますか?
ざっと見たところ車の中にも、おふたりが身に着けているものの中にも、紐やタオルの類はありません。
橘二尉の脳への酸素供給を停止できるタイムリミットは三分。
君の出血創への圧迫や止血に使えそうな資材や道具は手近に無い。
ここは思案のしどころですよ。
ちなみに電話線は切ったので警察は来ないし、救急車も呼べませんから悪しからず。
これお借りしますね」
森要は石畳の上に落ちていた橘女史のキーホルダーを拾い上げる。
次いで、植栽の中に設えられた野外コンセントをショートさせると楽しそうな笑い声を上げる。
メインブレーカーが落ちたのだろう。
屋敷内外の照明が全て落ち、遠い町灯かりと満月に近い月の光だけが夜陰を照らす。
「僕ね、この間本牧に行ってアメリカ兵からノクトビジョンを手に入れたんですよ。
結構高かったんですよ。
うん。
良く見えるな。
不実な恋人にはお仕置きが必要ですからね。
そう言えば御一緒の三島雪美さん。
彼女も本当に器量良しな娘さんですねぇ。
加納円君。
君みたいな何のとりえもないちびすけがモテモテだなんて、なんだか許せません、よ?
三島雪美さんは余禄として戴いちゃいますね。
そうそう、いずれあなたの姉上、双葉さんにもご挨拶に伺う予定です。
もっともあなたはもう直ぐ死んじゃうんですから、関係ないと言えば関係ないかもしれませんけどね」
森要の右手のサバイバルナイフが月明りで鈍い光を放つ。
大腿の痛みと屈辱感、そしてそれを凌駕する怒りが円の頭を破裂させんがばかりに膨れ上がる。
だが今は橘女史の人工呼吸に専念しなければならない。
円は思いつく悪態や減らず口をたたけず、規則正しい動作を続けざるを得ない。
自己中心的な臆病者を自認している円ではある。
だが晩餐の席で笑いさざめいていた橘女史の清楚な健康美を心行くまで堪能してしまった負い目がある。
そんな円に彼女の蘇生を止めると言う選択はありえない。
傷口から少しづつ血液が流れ出ていることが実感として分かる。
森要の言ったように、このまま止血せず橘女史の蘇生作業を続ければ、自分は死んでしまうのかもしれない。
『それにしてもきれーなおねーさんだな、橘さんって。
・・・mouth-to-mouth resuscitationってキスみたいじゃね?
イカンイカン。
これでドキドキじゃ、あんまりにも下衆過ぎるだろ。
後で三島さんにバレたら死ぬより辛い目にあわされるかも。
それに心拍数が上がると出血量が増えるに違いないよ?
ここは冷静にならねば』
橘女史に唇を合わせる度にトンチンカンな雑念が浮かぶどこかズレた円である。
橘女史にはルーシーや雪美にない大人の色気があるし、唇は艶やかで柔らい。
これは嬉し恥ずかしい。
・・・やはり雪美ひいてはルーシーにバレればただでは済みそうにない。
『心配しなきゃなんないのはそことちゃう!
この後に及んであさまし過ぎるだろ!』
どこか人ごとみたいな下品な煩悩にセルフツッコミを入れてもみるが、なぜか自分自身の状況には危機感がない。
橘女史は何とかするにせよ、森要の向かう先にはルーシーと雪美がいる。
橘女史が自発呼吸を始めたら突撃だ。
花壇の脇にスコップがあった。
得物はあれで良いだろう。
止血は屋内に突入後臨機応変にということで。
森要の蛮行に間に合うだろうか。
もどかしさが焦りにもなる。
出血のせいか人工呼吸のせいか。
円は次第に頭がぼんやりしてきたが、不思議と死への恐怖だけはない。
森要の乱暴狼藉を止めに行く前に、出血多量で円の生命が危ない。
それが現実だった。
だが、円にとり何故かその可能性は評価の対象外だ。
橘女史の救命とルーシーと雪美の救援。
この二つが今の円にとって至上命題となった。
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