第11話 綺麗なお姉さんは好きですか? 7
四人は満ち足りた気持ちに濃淡はあるものの、陽気な会話を続けながら玄関を出た。
橘女史は玄関の施錠をした後、ロータリーのぐるりを回って植栽の向こう側にワゴンを取りに行った。
門から車回しまで続く石畳の路は、コノテヒバとカツラが植えられた花壇を中心にしてロータリーを形作っている。
橘女史が似非パトカーのドアを開けて乗り込もうとしたその時だった。
玄関前では暴力事件や停学まで引き起こした円の減らず口が槍玉に上がっている。
さんにんは掛け合い漫才の様な明るい詰(なじ)り合いで盛り上がっていた。
車の方で軽い悲鳴と争いの声が聞こえたことでさんにんは異変に気付いた。
それほどまでに状況の発生は唐突だった。
「先輩。
鍵持ってますよね。
家に戻って直ぐ110番してください。
三島も一緒に行け!
お前が玄関の鍵をしめろ」
円はそう言い置くと植栽の中をショートカットして車に向かう。
残されたふたりの判断と行動も早い。
橘女史に背後から圧し掛かり運転席に押さえつけている人影に円が体当たりを食らわせるのとほぼ同時だった。
「避難完了!」
そう叫ぶ雪美の声と勢い良く扉の締まる音が聞こえた。
円が体当たりした人影は、身長が180センチ以上に感じられるほどに体格の良い男だ。
円の体当たりで体勢を崩した一瞬で橘女史の反撃が始まり、ほんの数秒で男は石畳に取り押さえられる。
「貴様、森要か?」
橘女史は少し息が荒いが男の両手首を後ろ手にしてから、手錠を取り出そうと腰のポーチをまさぐる。
「・・・僕も有名人になったものですね。
それにしても、おっかないひとだな。
橘佐那子。
都警備所属。
去年まで陸自にいたんですって?」
腹這いに引き据えられ、橘女史が膝で背中に圧迫を加えているのにも関わらず、苦し気な口調ながら男は饒舌だ。
体当たりの後、円は勢い余って路面に転がった。
立ち上がる刹那、森要と聞いて円は膝が震え出すのを止められない。
「良く調べてるな。
だが貴様もこれで終わりだ」
「橘二尉。
右のお尻痛くありませんか。
どうです、身体の力も抜けて来たんじゃありませんか?」
「貴様!
私に何をした!」
手錠をかける寸前だった橘女史の下から森要がするりと抜け出て、彼女を仰向けに転がす。
「サクシニルコリンってご存知ですか?
筋弛緩剤ですよ。
それとケタミンって言う麻酔薬の混合液を橘二尉のお尻に筋肉注射しました。
レディには失礼かとも思いましたが、状況が状況ですからね。
お察しください」
「・・・こんな真似をしてただで済むと思うなよ。
・・・もうすぐ・・・警察が・・・」
「身体の力が抜けて息が苦しく成って来たでしょ。
骨格筋と呼吸筋の麻痺ですよ。
ケタミンが効いて来る前に窒息死しなければ直に意識も無くなるはずです。
因みにケタミンには麻酔効果に加えて、呼吸抑制の副作用がおまけでついています。
そこで突っ立ってる加納円君。
いけませんねぇ。
人の恋人に横恋慕だなんて」
立ち上がった森要の大きく澄んだ瞳が、値踏みするようなしかしそれでいて爽やかとしか言いようのない視線を円に送って来る。
「・・・」
蛇に魅入られた蛙とはこのことを言うのだろう。
円の口からは減らず口どころか悪態の一つも出ない。
思考はおろかダイモーンもフリーズした。
森要の眼差しに捕らわれるまま、円の頭の中はブリザードの氷原さながら荒々しいまでに真っ白になる。
「さっさと此方に来て橘二尉に人工呼吸をしてあげてください。
早く蘇生処置を始めないとしないと死んじゃいますよ。
長くて十五、六分も続ければ自発呼吸が戻ると思います。
もっともケタミンも使ってますから、もう少し長くなるかもですね。
橘二尉が余程の根性の持ち主でも三十分は動けないと思いますよ?」
「じ、人工呼吸って・・・」
「君は馬鹿ですか。
彼女の頸を伸ばして気道を確保。
しかる後、鼻をつまんで約一秒かけて口から息を吹き込みます。
胸が膨らんできていればうまくいった証拠。
自発呼吸が戻るまでそれを繰り返すのですよ。
ほらほら、橘三尉の目を御覧なさい。
苦しそうですよ。
なにせ窒息ですからね。
加納円君。
もし彼女を死なせたくないなら、君には躊躇ったり恥ずかしがっている暇なんて、これっぽっちもありませんよ」
円は事態を分析し次の行動に繋げていこうと言う能動的な思考を放棄する。
円の脳裏には保健体育の授業で習ったうろ覚えの知識が紙芝居のように浮かんでは消える。
気が付くと森要の言うがまま、円は自動機械のように橘女史に人工呼吸を施している。
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