第10話 “忘れえぬ女”と“民衆を導く自由の女神” 14

 円がHRに戻ると荒畑と雪美が待っていた。

事の次第を少し盛りながら臨場感を意識して語ってみると、荒畑は涙を流して笑いこけた。

雪美は鬼の形相で円を叱りつけ返す刀で教頭を罵倒した。

「あなたはすっとこどっこいのおおたわけですか?

考えなしのうつけ者ですか。

フィリップ・マーロウみたいに減らず口ばかり叩いてると今に酷い目に遭いますよって。

あれ程口を酸っぱくして言ってましたのに。

それにしても教頭先生はなんですか?

事情を良く確かめもせず、ちょっと生徒がお茶目で分別がないからっていきなり暴力を振るうだなんて。

許せません」

いずれにせよふたりには大うけだったので、円としては大満足だ。

担任が記録に残さないと確約してくれた三日間の停学?謹慎?公休?は、サラリーマンの有給休暇みたいなものだろう。

そう考えるとちょっと嬉しい位だった。

「これから教頭先生の所へマドカ君の無実をはらすため直談判に行きます。

わたくしが論破してさしあげます」

一つ困ったのは、そう言って聞かない雪美の中で沸る熱血だった。

少し皮肉を含み、いっそ冷ややかですらあるユーモアを軸に物事に対処する。

そんないつもの雪美が鳴りを潜めている。

そこにはぐつぐつ音を立てて煮える憤怒が、身の内から吹きこぼれんばかりの雪美がいた。

例えて言えば悪代官を切腹どころか打ち首にしてしまえ。

そう言わんがばかりの激情に沸騰する雪美がいた。

それは円の知らない雪美の一面だった。

自分はボニー&クライド派だと笑っていたがそれは冗談ではなく、案外、雪美の本質かも知れない。

「止めないで下さい。

行をともにする連合いが侮辱されて暴力まで振るわれたのです。

とても捨ておけません。

ここで、おめおめ引き下ってはわたくしの女が廃ります。

面目が立ちません」

雪美のパッションはドラクロアの描いた“民衆を導く自由の女神”さながらの美々しい眩しさで円の心を惑わせる。

しかし祭り好きの荒畑もこの時ばかりは、旗を振りかざす女神と化した雪美の狂熱を危ぶんだ。

そうして柄にもなく彼女を宥(なだ)め諫(いさ)めるために知力の限りを尽くした。

「三島!

まあ、落ち着け。

このまま教頭のところなんかに怒鳴り込んでみろ。

お前もただじゃすまんぞ。

学年主任の岡本や担任の中田・・・。

先生方の折角の骨折りも水の泡だぞ?」

最初のうちは『ドラクロアの女神より雪美の方が胸が大きいかも』などと頓珍漢なことを考えながらぼんやりしていた円だった。

「加納!

お前も他人事みたいボケっとしてないで三島を止めろ!」

荒畑に尻を蹴り上げられて円も我に返った。

 怒りがトップギアに入った雪美のシフトダウンには思いの外時間が掛かった。

説得の為に熱弁をふるう荒畑に相槌を打ちツッコミを入れながら、しまいには雪美を羽交い絞めにまでしなければならなかった。

雪美を説得するだけで生徒指導室の比ではない程に円は疲れ果ててしまった。

 雪美も自分のことであればこれ程感情を昂(たかぶ)らせることは絶対に無かったろう。

ルーシーにせよ雪美にせよ、こと円が絡むと理性の傾斜がおかしくなる。

事案のツボの入り具合によっては感情の回転をコントロールするギアの入り方がおかしくなる。

それは毎度のことだが、今回の雪美は格別のご乱心だった。

 この場にルーシーがいなくて本当に良かった。

円は心の底からそう思う。

荒畑の応援があっても、この上ルーシーが参戦して騒ぎ出したらと肝が冷えた。

荒畑と二人掛かりでも止めることができる気がしない。

教頭が女生徒ふたりにフルボッコにされている姿が目に浮かんでちょっと萌えたが、それは内緒だ。

 彼女たちのツボは円自身の感情の湯加減とはあまり関係ない。

円にとってはぬるめでもふたりがエキサイトすることはある。

円が沸点に近くてもふたりは理性的な姿勢を崩さないことも多い。

 今回のカツアゲについても、事件そのものへの雪美の関心は薄い。

雪美の反応は円の体や心に付けられた傷への心配と労りが大半だ。

実際の所、円は不良より警官の方にずっと大きな憤りを覚えた。

けれども雪美は円の憤りを、それは考え違いだと諭すだけだった。

円とはツボがズレる傾向はもちろん双葉にも濃厚にある。

身近な女性たちのこうした了解不能なメンタルを総括して、円は心中密かに“女態の神秘”と名付けて気味悪がっている。

 「おまえ、実は大変な女に取り憑かれたのかもな」

「三島さんの事?」

「いや御免、女たちだ」

女子トイレの前で雪美を待ちながら、お疲れ様な荒畑がぽつりと一言口にする。

円は荒畑のその一言にどう返してよいやら分からない。

空気を飲み込んだような表情になってからあらぬ方へ視線を逸らした。

 洗面所で見繕いを済ませ、雪美はいつもの冷静さを取り戻している。

地面にめり込みそうな疲労感に茫洋とする円は、雪美とふたり仲良く帰途に就く。

文芸部に顔を出す予定の荒畑とは教室で分かれた。

 角店を過ぎて、ぽつりぽつりと言葉を交わしながらしばらく住宅街を行くと、ふたりはいきなり黒服に拉致された。

黒服は丁寧な口調と物腰ながら有無を言わさぬ体で、ふたりをベンツと思しき大型セダンのリアシートに押し込んだ。

ハザードランプを点滅させていた自動車の窓はスモークフィルムが張られ中を窺い知ることはできない。

だが半ば円の予想通り、そこには身体を強張らせたルーシーが座っていた。



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