第10話 “忘れえぬ女”と“民衆を導く自由の女神” 12

 放課後しばらくして、校内放送が生徒指導室への円の呼び出しを告げる。

「えらく早手回しだな。

先に職員会議があるんじゃなかったのか」

共にだらだらとHRの清掃をしていた荒畑が首を傾げる。

「まあ、ちょっと顔出してくるよ。

あとよろしく」

円は手にしている箒を荒畑に預けると踵を返す。

「そう言えばさっき三島の言ってた『思えばあの日から』のあの日には、お前たちの間にいったい何があったんだ?

そこんところ何れ詳しく聞かせろよな」

円は荒畑の方を振り返りもせず、右手の中指を立てて教室を後にする。

 

 なんだか大人にはうんざりだった。

結論から言えば、円には三日間の停学と言う理不尽が降り掛かった。

 

 生徒指導室に入ると、疲れた表情の学年主任と担任が所在無げに煙草をふかしている。

どうしたんだろうと視線を流すともう一人。

後退した額に青筋を立てて、おまけに目まで血走らせたオッサンが円を睨みつけて来た。

件の嫌われ者、教頭先生様である。

教頭は直立不動の体裁をとる円に、ワンワンキャンキャンと何やらまくし立て始める。

 何を喚いているのかさっぱり分からなかったので音声は聞かないことにした。

顔を赤くして口角に泡を溜めたオッサンの仕草や表情はビジュアル的に興味深い。

円は珍獣を眺める博物学者のノリで思わず、じっくり観察モードに入ってしまう。

 教頭は生徒を高圧的に叱りつけることで権威を示せると思い込んでいるつまらない男だった。

そんな教頭には、緊張も怯えもない穏やかな円の表情が、どうやら薄ら笑いを浮かべているように見えたらしい。

 だが円には誓ってそのつもりは無い。

馬鹿にするような意識はこれっぽっちも無い。ただ円には、教頭に対して敬意も関心もないだけだ。

反省どころか怒りや蔑みの気持ちすら湧かなかっただけなのだ。

そのことは言い添えておこう。

 学年主任と担任は心底うんざりと言う顔付で腕組みをしたり天井を見上げたりしている。

ふたりとも教頭に加担する訳でも円を庇う訳でもなく静観の構えを崩さない。

 昨日の交番での気分と相まって、ヒートアップする教頭を眺めていても、円には動じる心が欠片もない。

そんな自分に円はちょっぴり自己嫌悪すら感じている。

お白洲に引き据えられた時には漏れなく「恐れ入りました」と平伏する。

それが日本人の正しい道徳作法だと円は信じている。

子供の頃から遠山の金さんや大岡越前から、日本人のあるべき姿をしっかり学んでいるのだ。

そうであるのにもかかわらず、ちっとも恐れ入らない自分に不信の念が湧いた。

 

 「教頭先生。

仰りたいことは承知いたしました。

時間もアレですのでどうか結論をお聞かせください」

このままでは教頭が心臓発作か卒中でもおこしやしないかと心配になっての一言である。

学年主任と担任の『あちゃー』という表情を目にして、円は自分の失敗を悟った。

「貴様、警察沙汰を引き起こしておきながら反省のはの字もないのか。

何よりそれが目上の者に対して取る態度か!

停学だ!」

「ありゃま停学ですか。

・・・何日間ですか?」

「こいつしれっと・・・無、無期限だ!」

「りょーかいです。

全身全霊、頭の天辺から足の爪先まで、余すところなく完璧な反省を目指して精進することを誓いまーす。

えーっと、帰っていいですか?」

 円は良い年をした大人が激高し我を忘れる姿を、生まれて始めて見てしまった。

教頭は「貴様この俺を愚弄するか」と口角に溜まった唾を飛ばしながら、円の右の頬を殴りつけてきたのだった。

『教頭先生は大脳辺縁系の制御が元々あまり得意では無いのだろうな』

円はいきなり殴られたことへの痛みや恐怖より、教頭が結ぶ人間関係に頻発するであろうトラブルに思いを馳せる。

だがそれは『要らぬおせっかい』であることに気付き、円は同情半分の苦笑をもらした。

 よせばいいのに火にわざわざに油を注ぐ真似をする円である。

教頭は自ら発動した暴力で高まる興奮が、円の笑みで更にアクセレートした。

まるで怒り狂ったチワワの様に目を血走らせていきり立つ教頭を、学年主任が羽交い絞めにしてそのまま指導室から連れ去った。

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