第10話 “忘れえぬ女”と“民衆を導く自由の女神” 4

 円は玉川上水にほど近い自宅まで雪美を送り届けた。

自分の部屋に寄って行けと言う彼女の湿った誘いを固辞して、円は来た道を引き返した。

断じて雪美の父親が愛用するショットガンの銃口に怖気付いた訳ではない。


 電車の中でつらつらと考える内、ルーシーのそれと『同等かも』と思いついた雪美との友愛や絆だった。

その新しい思い付きに、円の同志愛的なパトスは余程高揚していたのだろう。

帰路で玉川上水に突き当たると、円は三鷹駅とは逆方向である井の頭公園に向かって歩き始めた。

気分が高揚した時によくあるあれだ。

遠回りして帰ろうなどと洒落込む無駄なロマンチシズムだ。

それはお調子者が迷い込む、ろくでもない場面展開のきっかけでもある。


 上水沿いの路は丁度今頃の季節に、太宰治が愛人と共に入水した辺りを通る。

入水現場からは思いのほか遠い下連雀の禅林寺では、今年も桜桃忌が開かれたろう。

円はぼんやりそんなことを考えながら歩く。

 夏至が過ぎたばかりのこの時間である。

辺りはまだ黄昏の気配に染まっている。

それでも、井の頭公園を抜けて吉祥寺駅に着く頃には、すっかり暗くなっているに違いない。

駅近くの喫茶店、ティークリッパーに寄ってみる。

そうして、さっきロージナで雪美が注文していたアッサムを頼んでみるのも、今の気分ならおつかもしれない。

 校外では同時進行の大変や難事が多くてなんだかいっぱいいっぱいの気分ではある。

だが校内でももうじき“学園の憂鬱”たる期末試験がはじまるのだ。

『なにかとお忙しい御仁じゃな』

円は他人事の様に自分を俯瞰してみるが面白くもなんともない。

 このまま上水沿いに歩いて三鷹台の方へ向かえばルーシーの家に辿り着くことは分かっている。

あれこれ悩んではみた。

だが、雪美が推測したルーシーの決意を考えれば、今はできないことの方が多い。

「ご機嫌如何?」

などと軽々しくおちゃらけてみせ。

「お詫び方々、先輩への連帯表明をここに宣言します」

なんて軽薄を晒すわけにもいくまい。

 「十七歳で太宰に傾倒しない奴も。

二十歳すぎて太宰を卒業できない奴も。

おんなじ程度には人間失格だろうぜ」

そううそぶく荒畑のシニカルな笑顔が、円の脳裏に唐突に浮かんだ。

『太宰が僕の立場ならどうだろう。

太宰なら毛利先輩の綺麗な目を見つめて謝罪を口にするに違いない。

先輩に許され、あわよくば好意を引き出すためならば。

太宰は物書きの全知全霊を傾けて。

非の打ちどころのない真摯な口調ででまかせを並べ立てるだろうな。

それでなにもかも誤魔化しちまって、上手くいけば懐に潜り込んで仲良しになる?

下手を打ったのなら、後は知らんぷりを決めこんでトンズラするに違いない。

詐欺師は自分の嘘八百を自から信じてことに及ぶらしいよ。

太宰も自分の不誠実を誠実だと確信しながら女の人達を誑し込んだのだろうな。

・・・案外それもいいかも』

円は太宰と良く似た依頼心と甘え体質の持ち主だった。

だが円は太宰と違い未だ子供だったし、今のところ女誑しの本懐を希求している訳でもない。

ここは幼少の砌(みぎり)から双葉が色々仕込んできた歯止めの暗示が効いている。

円は独り言ち溜息をつくだけで、真っ当な立ち位置に踏み止まった。

 ティークリッパーに行くなら公園には踏み込まずに中央線のガードをくぐるのが近道だった。

都道114号線、通称公園通りを左に折れてそのままマンション群の間を抜けるルートだ。

だが円は公園通りをそのまま横断した。

既に薄暗い井の頭公園を突っ切って駅に至る道を選択したのだ。

自動車が行きかいバスが走る通りを進むより、公園の中をそぞろ歩く方が気分が良かろう。

そう考えてのことだ。

だがこの選択は、何かと至らぬ円の脳みそが犯した大きな過ちだった。

 高木が育ち昼でもほの暗い印象のある園内を見通すと、もう所々で光量の低い街灯が鈍い光を放ち始めている。

日中は画架を広げたりサックスを練習する人もいる。

それくらい、ちょっと小洒落た趣のある公園のそここにも既に人影は無い。

寂しい景色に夜の帳が広がりつつある。

 円は夜遅くなってもそれなりに人気がある、井の頭池を巡る周遊路へ降りて行こうと歩を早める。

だがこのところめっきりツキからは見放されている円のこと。

逢魔が時にはやはりお約束のトラブルが潜んでいた。

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