第9話 少女と少年とチョコレート 2
円としては、今現在ルーシーと距離があることを意識せざるを得ない。
一時的にせよルーシーと雪美のパワーバランスが崩れたのだ。
不本意ではあるが後難を憂うなら、それなりの誠意を持って雪美と向き合うしかない。
他方、雪美にとってはどうだろう。
何れルーシーが戦線復帰した時に備え、円に対する自分の立ち位置を有利に設える。
そういった意味で考えれば、ルーシーと距離がある現在の状況は、雪美にとってはお誂え向きだったろう。
だが、雪美にはルーシーを排除して円を独占したいと言う野心は全くない。
つまるところ、ルーシーがいてこその自分である。
雪美にはそうした強烈な自意識がある。
不思議ではあるが、雪美がルーシーの復帰を願う気持ちはむしろ円より強い。
恋愛と同志愛。
雪美とルーシーは円に対して相反するアンビバレンツなベクトルを内包する。
そんなふたりの立場からもたらされる葛藤や緊張が、なぜか嬉しくてたまらない雪美だった。
「ゴディバ・・・なにそれ?」
円は聞き慣れぬ単語を耳にして首を傾げた。
「ベルギーのチョコレートメーカー。
一口ずつまるで小さなオブジェみたいに品良く成型された可愛らしいチョコレートなの。
何年か前、日本橋の三越に日本で初めてのお店ができたわ。
色々な種類があってね。
・・・ロージナのココアってあの味を思い出させる」
円はいきなりなんのこっちゃと脱力感を覚える。
だが双葉が甘味に寄せるひたむきな情熱を思えば『女子ってのは大概そんなものだろう』と得心した。
円が雪美に向ける眼差しは、甘味に惑溺する姉への生温かい上から目線と同質のものに変化する。
近頃の円の立場としては、随分と傲岸不遜で身の程を弁(わきま)えぬ気持ちが立ち上がったものだ。
加えて。
『ゴディなんちゃらと言うチョコだってふーちゃんなら良く知っているに違いないや』
などと反射的に姉を念頭に置いたのだから円も大概シスコン上等である。
女性に対する解釈や査定は姉基準で好悪軽重を量る。
そんな円の習い性がこんなところにもひょっこり顔を出す。
無様、それ以外の何物でもなかった。
「マドカ君、ゴダイヴァ夫人ってご存知?」
雪美がココアのカップをテーブルの上に置き、再び円の目を覗き込んだ。
「えっ、誰それ?
チョコレート屋さんのおかみさん?」
円は目の前で微笑む聡明な少女が投げて寄こす話題の飛躍に、全くついていけない。
「イギリスの伝説。
昔々、コベントリーに重税を課して領民を苦しめる領主が居たんですって。
でもそんな領主の奥方はとても心優しくて信心深い女性だったの。
領主の奥方がゴダイヴァ夫人。
夫人は度々夫の暴政を諫めたのだけれども、彼は彼女の諫言にまったく耳を貸そうとしてくれない。
そればかりか仕舞には腹を立てて、領民を思う夫人の願いを聞き入れる代わりに・・・。
「一糸まとわぬ裸の姿で馬に乗り街を一周して来い!」
なんて言い出す始末。
いかにも尊大で亭主関白な夫が言い出しそうなことだけどね。
あろうことか夫人はそれを真に受けて本当に裸の乗馬行をやり遂げるの。
さすがの俺様領主も領民の為に、恥を恐れず身を捧げた夫人の崇高な志には、兜を脱がざるを得なかったわ。
領主は夫人との約束を守って、自領の法外な重税策を改めることにしたの。
そんな伝説」
雪美は優雅な手つきでカップを口元に運んだ。
「・・・?」
「でもね。
正しい行いに水を差す人間ってどこにでもいるの。
夫人が馬に乗り裸で街を横切る時のこと。
事情を知る町の人々は家にこもり窓を閉じたわ。
うっかりにでも彼女を見て辱めることがない様にという町の人々の感謝の思いね。
だけどたった一人だけ不心得者の男がいた。
男の名はトム」
「・・・???」
「のぞき。
ピーピングトムの語源よ」
なんだか得意そうな雪美を見て円の混乱には拍車がかかった。
「アッ!」
「ピーピングユキだなんで失礼しちゃう。
わたくしはマドカ君が今考えたような変な人でも危ない人でもないわ」
雪美が円の頬に人差し指を当て頬を膨らませる。
「とっさにそんなこと思っても騙されませんからね」
雪美は少し顔を赤らめると指をひっこめた。
円は指で触れられた刹那。
頬を膨らませた雪美を『可愛いな』と反射的に思考できた自分を誉めてやりたかった。
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