第2話 そして少年は少女と出会った 9
双葉とルーシーは円の主治医から症状と検査結果のあらましを聞いた。
その後再び慈母の趣を芸風とする例の看護師に案内されて、ふたりは円の病室に送り届けられた。
円はベッドに横たわり、今だ意識が戻らない。
時折赤ん坊の様なむし笑いを浮かべている。
その穏やかな寝顔を冷静な気持ちで眺めていると、ふたりには円がただ惰眠を貪っている。
そのようにしか思えない。
見ると聞くとは大違いとはよく言ったものだ。
双葉とルーシーは顔を見合わせると、互いの表情の内にささやかな安堵を見て取った。
医師から聞かされた楽観的な診断結果にも拭い切れなかった双葉の不安は、あらかた払拭された。
だがそれはこうして可愛らしい寝息を立てる弟の馬鹿面を直接観測する事以上に、傍らにルーシーがいる安心感が大きかったろう。
暫くすると、後から病院に駆け付けて、細々とした事務手続きを一手に引き受けくれた教師が円の病室に現れた。
三者はお互いに何度も頭を下げながら、もごもごと社交辞令をやりとりする。
こんな時には本邦に特有な一連の挨拶である。
教師は双方の家族と事後処理について打ち合わせた後、ルーシーを一旦学校に連れ帰れと校長から指示を受けていた。
ルーシーについては『予後には問題なかろう』と言う診断を受けての指示である。
円と双葉を気遣ったルーシーは病院に残ることを強く主張した。
しかし彼女は、学校で待つ校長と学年主任に、事故のあらましを説明する責任を果たせ。
そう教師に説得されて、しぶしぶ病院を辞した。
病室にひとり取り残された双葉は再びよからぬ不安に取りつかれた。
「毛利さんがお帰りになってからもの凄く心細くなってしまって“前奏曲とアレグロ”が聞こえてきたの」
「クライスラーのブニャーニの様式によるってやつ?」
「そう」
双葉はその時の心細さを思い出したのか薄っすらと涙ぐんだ。
“前奏曲とアレグロ”はそう何度もリピートされなかったらしい。
暫くして円が目を覚ましたとのことだから、大泣きした双葉の醜態については改めて聞くまでもない。
「あれは後ろ髪を引かれると言うのかしらね。
毛利さん、円が目を覚ますまでベッドサイドに居るって先生にかなり強い口調で抵抗していたわ」
「知らない先輩だし、顔を合わてもなんて言ったらいいか分かんないし。
帰ってもらってよかったよ」
「とってもきれいなお嬢さん。
円より背が高くて頭も良さそうだったわ」
双葉の目の色が黎明の空の様に複雑に変化した。
「オヤジ・・・毛利さんのお父様ね。
父ひとり娘一人と言うお家らしいわ。
お母様を亡くされているのね。
それで過保護と言うか過干渉が過ぎてね。
こと娘さんがからむ問題が起きると必要以上にヒートアップしてしまうらしいわ。
本当に申し訳なさそうに謝っておいでだったわ。
それでも同情なんかできない。
姉さんはあのオヤジ・・・お父様はもう生理的に無理だけど・・・今度会ったら只じゃ置かないって少し思ってるけど、ルーシーさんは保留」
「保留って?」
「だって、聡明で優しいお嬢さんだけど、円と関係を持とうとする女よ?」
「関係を持とうとするって、フーちゃん少しは言葉を選ぼうよ。
僕は先輩の顔にすら覚えがないんだよ?」
円は『下衆の勘ぐりですよ』と言う眇(すがめ)を使い双葉を冷笑してみる。
円自身が話をするはおろか一面識もない毛利先輩に対して、双葉がどう感じ何を邪推したのか見当もつかない。
だが、そこには煩わしい厄介事がモヤモヤと燻り始める気配しかない。
円としては発火延焼する前に一応冷や水を浴びせる攻勢防御を仕掛けることにしたのだ。
円がわざわざ指摘した、関係を持つというフレーズの一般的な解釈に気付いたのだろう。
双葉は整ったかんばせはおろかブラウスから覗く首筋から手の甲に至るまで、恐らくは全身の表皮を朱に染める。
そして心の底から恥ずかしそうに俯き「バーバーの“アダージョ”」と呟く。
「・・・知っているのはこのくらい。
なにせ意識が無かったからね。
全部姉貴から聞いた伝聞だよ?
毛利先輩とはあれから顔を合わせるどころか口も聞いちゃいないんだ」
円は荒畑に向かって大げさに肩をすくめて見せた。
「なるほど。
しかしお前は好むと好まざるに関わらず時の人に成り上がっちまったな。
よりによって毛利先輩と絡みができるなんて、羨ましくて殴り飛ばしたくなるくらいに運の良い奴だ。
だがな、相手が悪い。
俺には十字架を担いで処刑場に向かう、お前の愉快極まりない末路しか思い浮かばん」
荒畑は心の底から嬉しそうに笑う。
「怖いこと言わないでくれ。
不幸な事故があった。
幸い当事者に怪我も後遺症も無かった。
皆さまお手を拝借。
パン。
一本締めで終わりだよ」
「そうはいかねーだろーさ」
荒畑にトイレに連れ込まれた円は、知っていることを洗い浚い白状させられた。
話を聞いてスッキリした荒畑と話をして余計にモヤっとした円は、二人並んで仲良く用を足し、こうして教室に戻って来た。
教室の前の廊下にはいつもより人が多く出ている。
おまけに、妙な熱気がこもっていることが遠目にも分かった。
嫌な笑みで唇をひん曲げた荒畑が顎をしゃくった先に目をやると“パガニーニの主題による狂詩曲第18変奏”がにっこり笑いながら手を振る。
円には、一目でそれがアレであることが分かった。
円の顔から血の気が引いたその時、一限の予鈴が鳴る。
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