第2話 そして少年は少女と出会った 8
「担ぎ込まれた男子生徒の身内の者だって受付で言ったらね。
なんの説明もないまま担当医の元へ案内されたの」
病人の家族への対応がなっていないわと、双葉は眉根を寄せる。
廊下には、無機質な白壁に番号の振られた扉が等間隔に続く。
造形的に全く愛想のないベンチが、やはり等間隔に置かれている。
「頭の中では“カルミナ・ブラーナ”が脅迫的に鳴り響いて、身体の震えが止まらなくなったわ」
双葉は唇を噛む。
そうして不安に苛まれる心をなんとか鎮めながら案内された3番扉の前には、見知らぬ長身の男性が佇んでいた。
案内に立った事務の女性が、その男性に加納さんのお身内の方ですと告げた瞬間だった。
クリストファー・リーみたいな顔の男が、血走った眼を見開いて双葉を睨み付ける。
誰だろうと双葉が首を傾げる暇もあらばこそだ。
男が堰を切ったように罵声を飛ばし始めるからたまらない。
「たちまち現場は阿鼻叫喚の巷」
双葉は円に向かって身を乗り出し胸の前で両の拳を握り込んだ。
『阿鼻叫喚の巷?』
円は何のこっちゃと思うがここは黙っておこうと考える。
賢明な判断だった。
双葉は弟の消息も知らされぬまま面識のないドラキュラ男に怒鳴りあげられて、瞬時に思考のブレーカーが落ちた。
頭の中でジョン・ケージの“4分33秒”の演奏が始まったと大真面目に言うくらいだ。
シュールを通り越して最早カオスにパニクったのだろう。
事務員さんもぽかりとまあるく口を開けたまま凍り付いてしまう。
「まるで自分が叱られているみたいに涙目になってしまいました」
事務員さんが後からそう打ち明けてくれたというから、男は余程の見幕だったのだろう。
怒涛の不条理がその場を支配していたのは明らかだ。
双葉は男の喚きたてる言葉が果たして日本語なのかどうかも理解できぬまま、お地蔵さんの様に固まってしまう。
左程時を置かず、赤毛の少女が開いた扉から飛び出して来る。
少女は双葉を庇うように男の前に立ちはだかる。
おかげで双葉はかろうじての再起動を果たすことができた。
どうやら男はその少女の父親らしかった。
彼女が低く冷たい口調で唱え始める叱責の呪文は、男の怒気をぴたりと抑え込んだ。
娘の怒りは爆音を立てて暴走中の父親の魂を、絶対零度に追い込んだように思えた。
少女は恐怖と混乱の冷めやらぬ双葉の肩を抱いて長椅子に掛けさせる。
そして滂沱と涙を流しながら震える事務員さんに深々と頭を下げて父親の非礼を詫びた。
ひとまずその場を治めた少女は、双葉の過呼吸が落ち着いたところで事の経緯を細かく説明しはじめる。
「わたしの父が大変失礼なことを大きな声でべらべらと・・・。
どうお詫びしたらよいか・・・。
父は後できつく叱り置きますのでどうか一先ずはお許しください。
あの・・・。
加納君のお身内の方でいらっしゃいますよね?」
「・・・姉です。
いったい何が円に、弟の身に何が・・・」
少女は震えながら涙ぐむ双葉の肩を再び抱く。ことのあらましを、まるで一休さんの母上様みたいな優しい口調で語り出す。
「病院へいらっしゃるまで、さぞやご不安で心細かったでしょうに。
考え無しの短絡的な父のせいで、まるで追い打ちをかけるように余計なご心痛までお掛けしてしまいました。
本当にごめんなさい。
・・・申し遅れましたが、わたしは国府高校二年の毛利ルーシーというものです」
それから赤毛の少女、毛利ルーシーはことの起承を分かり易い丁寧な口調で語り始める。
学校で丁度昼休みに入った刻限に事故が起きた。
生物室脇の階段を駆け下りる円と対向して駆け上るルーシーが鉢合わせをしてしまったのだった。
バランスを崩した二人は勢いよくコンクリートの階段に倒れ込んだ。
その際、円がとっさにルーシーを庇ったのが災いして、自分ばかりが頭を強打して気を失った。
ルーシーも気が遠くなったものの意識を失う程では無かった。
そうしたことどもを順を追って説明する。
「加納君はわたしがいくら呼び掛けても意識が戻りませんでした。
通りかかった人に助けを求め、先生にお知らせして救急搬送の手配をしていただきました」
加納君のことが心配で救急車に同乗して病院まで来たこと。
大事を取ってルーシーも検査を受けさせられ今に至るのだと話が進んだ。
「父が何をどう誤解したのか・・・。
お姉様には大変ご無礼をいたしました」
双葉はルーシーの歳に似合わぬ冷静な語り口調で、少しずつ落ち着きを取り戻す。
そうして双葉の混乱と恐怖がしぼんで年齢なりの弁(わきま)えを取り戻した頃だった。
いつからかふたりを傍らで見守っていた看護師が、おっとりとした柔らかな佇まいで声を掛けてきた。
看護師は優し気に微笑むとふたりを促し、主治医の待つ三号室のドアを静かに開ける。
ルーシーも双葉に寄り添う様に席を立つ。
愛娘から存在を全否定されるがごとき無視を決め込まれている父親は、何か言いたげに右手を彼女の方に差し出した。
しかしルーシーは氷のように冷ややかな一瞥を父親にくれると、音も無く彼に近付き耳元で二言三言囁いただけだった。
それは先にも増して余程魔力の強い呪文なのだろう。
彼女の父親は沈鬱な冬の海の様に蒼ざめ、嫌な汗を流しながら寂寥感が深く刻まれた彫像と化したそうな。
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