第2話 そして少年は少女と出会った 7

 毛利先輩のことは円が尋ねもしないのに、事情通の荒畑が講釈してくれたことがある。

お題は最新の女子相場概況:傾城の美女騙だったか。

因みに、傾城の美女が何のことか分からない円は、当然首を傾げたものだ。

すると、教養がないやつめと笑う荒畑の補遺が返って来た。

「一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く。

それ程の美人ってこった」

円にとっては、更に訳が分からなくなる荒畑の解説だった。

だがそのことで、ミーハー的雑踏とは距離を置いている朝倉善美を思い出した。

あの爽やか硬骨漢ですら「髪の赤い美少女を見かけた」と少しに興奮気味に話していたことがある。

円はそれを思い出したのだ。

毛利先輩の容姿はただ事ではない。

そのことは荒畑の訳の分からない形容より、浅倉の興奮の方が腑に落ちる。

そこまで思い至って円は気持ちが一気に暗くなった。

 トンネルの向こうでジュリアと出会って以来のこと。

他人に今一つ興味の抱けない日常を生きる円である。

だが毛利先輩の姿形を思い浮かべることができない円でも、これは厄介なことになる。

それだけは理解できた。

円は厭世的な気分が胸中に広がるのを抑えられなかった。

 

 「・・・それはまずいな」

「何もまずいことなどないわ。

円は悪くないし赤毛のお嬢さんにも非は無いの。

それなのにあのオヤジときたら・・・。

今私の頭の中はサティの“グノシェンヌ”でヒリヒリイライラ」

いきなりアクセルが戻らなくなったレシプロエンジンみたいな双葉だった。

耳に聞こえない唸り声を上げて静かにヒートアップする姉の姿はある意味新鮮に思える。

そして双葉の、氷の女王を彷彿とさせるペルソナは、身がすくむ程恐ろしくもある。

姉の冷たい怒りは、円が良く知る彼女の熱い怒りとは、まったく質を異にするようだ。

 双葉は円が思わずつぶやいた「まずいな」と言う言葉の真意を理解していない。

円のつぶやきは、悪目立ちすることなく静謐な学校生活を送りたい。

そんな細やかな願いが入学早々反故になることへの懸念から出たものだ。

 双葉は円が相手の身を気遣って発した言葉と受け取った様だ。

だが円は、事故の責任が等分であることを知った瞬間に毛利先輩に対する興味を失った。

それは昨今の円らしい人間関係の整理術、いわゆる損切思考によるものだ。

 この場合、自分に応分の責任が無いのであれば早々に忘れるのが吉と思える。

だから円はそうすることにした。

身の振り方を決めてしまえば、最早毛利先輩と言う存在は円にはどうでも良いものになる。

 大問題なのは、毛利先輩が学園アイドル級の美少女であるらしい事実だ。

円はその学園アイドル級の美少女相手に、尺玉レベルの花火をぶち上げた。

円はアイドルと事故って救急搬送されたモブなのだ。

アイドル、事故、モブとくれば、退屈しのぎにはもってこいの案件だろう。

尺玉レベルの花火とはそう言うことだ。

尺玉を見物するのは下手をすれば全校生徒と言うことに成る。

 ただひたすらに目立たない。

皆にデクノボーと呼ばれ、誉められもせず苦にもされず、そういうモブに、僕はなりたい。

円は常日頃そう願っているのだ。

そんな願いが台無しになる可能性がある。

 それにしても双葉の罵声はどうしたことだろう。

事故の様子とか、怪我の当事者である円や加納先輩への心配りや気遣いが、真っ先に話題の中心に成るのなら分かる。

だが自制心もものかわ。

双葉の鞘走った感情の刀身が、いきなり躊躇いもなく切り飛ばそうとしているオヤジとはいったい何者なのだろう。

毛利先輩の父親とはチラリと聞いた。

だが、事故相手の父親であろう。

何より毛利先輩はかすり傷ひとつないと言う。

となれば温厚な姉をここまで激昂させる要素が、円にはどうしても思い浮かばない。

 普段の双葉は余程のことがあってもよそ様の陰口をたたく様な人間では無い。

ここまで他者に対して攻撃的な姉の姿を見るのは円も初めてだ。

円は自分に降り掛かった厄介事以上にそのことが気に掛かる。

 本音を言えば、円にとってオヤジはどうでも良い。

双葉からは毛利先輩との事に限定して、詳しい情報収集をしたいところである。

だが興奮冷めやらぬ姉のことも心配は心配だ。

円は彼女が激昂するオヤジマターに大人しく耳を傾けることにした。

 とうに夕餉の時刻は過ぎているが、リビングのソファに双葉を置き据えると円はコーヒーの用意をした。

湯を沸かす間に深煎りのマンデリンを細挽きにしてフィルターをセットする。

今晩はコクのある一杯が必要そうだ。

 どうやら双葉は半分正気を失うような状態で病院に辿り着いたらしい。

だが彼女を待ち構えていたのは、弟の病状を伝える労りの言葉とは似ても似つかぬ罵声の嵐だった。

乳母日傘(おんばひがさ)とまでは言わない。それでも、清潔で丈夫な箱の中で大切に育てられてきた双葉である。

見ず知らずの人間にいきなり敵意を向けられるなどあってはならないことだ。

 双葉はその時の息の詰まるような焦燥感を思い出したのか。

あるいは怒りの記憶が再び呼び覚まされたのか。

マンデリンを少し含んでカップを置くと、震える声で事のあらましを吐き出す。

リビングに漂う程度のスモーキーな香りと一口ばかりの口福では、ささくれた双葉の神経は治まらないようだった。

 

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