第2話 そして少年は少女と出会った 6
一連の検査を終え、後日の経過観察と再検査の要領を伝えられてから、弟と姉は帰宅を許された。
失神の原因は頭部を強打したことによる脳震盪であると医師から告げられた。
意識を失う直前の状況をつらつら思うにつけ。
頭頂部にできた大きなこぶと言い。
臀部に残る鈍い痛みと言い。
当事者の円としてはどうにも腑に落ちないことばかりだ。
踊り場で衝突した柔らかくて良い香りのする未確認物体は女子である可能性が高いだろう。
そうであれば事故のもう一方の当事者だったはずだ。
円はどうにもそこの所が気になって、帰宅後少し落ち着いたところで双葉に尋ねてみることにした。
病院から家に着くまでの間、時々涙ぐみながらもしゃべり続ける姉だった。
円は話題を変えて、そもそも話を切り出す隙を見つけることができなかったのだ。
「でさ、フーちゃん。
僕に何があったんだろう。
色々考えて見たんだけど、どうも記憶があいまいでさ。
階段で誰かとぶつかったのは確かだと思うんだけど」
「・・・いけ好かねーオヤジだったぜ。
今度会ったら○○タマ蹴り上げてぶち殺す」
双葉の柳眉が逆立ち、共に暮らす弟ですら滅多にお目に掛かれない形相が面に浮かび上がる。
『これが悪鬼羅刹のごとしってやつかな』と、円は喉元に迫る恐怖に怖気を振るった。
一番最近この顔を見たのは確か小学校低学年の頃だ。
あの時円は姉に泣いて許しを請いながら盛大にお漏らしもした。
今の今までそのことをすっかり忘れていた。
身の毛がよだつ程の恐ろしい記憶が円の脳裏に蘇り、膝が震えた。
姉に叱られてお漏らしをしたなどとは、決して人に知られてはならない。
それは、円が歩んできた黒歴史上でも特筆すべきスキャンダラスな記憶だ。
トラウマレベルの情景は円の脳内では白黒サイレントで記録されていた。
文楽では人形のかしらがいきなり怖い顔になるからくりがある。
娘道成寺で清姫の顔がいきなりツノのある鬼に変わるアレだ。
ガブと言うからくりだが文字通り、いきなり噛み付いて来そうな双葉の形相だった。
それが今、円の眼前にいきなり現れたのだ。
総天然色トーキーのど迫力である。
双葉の逆鱗に触れたのがどこかの間抜けなオヤジらしいことは、円にとって幸いだった。
直面するこちらが総毛立つ程の双葉の怒気である。
加えて、いつもおっとり礼儀正しい双葉の唇から吐き捨てられた言葉は、これまた衝撃的である。
耳を疑う単語のチョイスで組み立てられた悪態なのだから、円の戦慄にも硬質の芯が通る。
「・・・僕はどこかのおっさんとぶつかったの?」
そんなはずは無かろうとは思う。
だが場を取り繕うため、円は双葉の意に沿うふりをしながらお為ごかしを口にする。
震えながらもなんとか言葉を紡いだ円だった。
それでも思わず知らず、ついっと目をあらぬ方へ逸らしてしまう。
跳ね上がった心拍と掌の汗が強く意識される。
声も上ずっているのだからざまは無い。
どうやら姉から完全に自立したと思っている自分は大甘の坊やだ。
円は増長していた己の、思春期的な夜郎自大振りを猛省した。
フーちゃんのちっちゃなまどかは未だ健在だった。
「いいえ、あなたはおっさんとなんてぶつかっていないわ。
・・・円はね。
二年生の毛利さんと仰る女生徒さんと出会い頭というのかしら。
ふたりともどもの不注意で正面衝突したと言う事らしいわ。
おっさんはそのお嬢さんの父親」
刹那の幻だったのか。
円は逸らしていた視線を戻し恐る恐る双葉の様子を伺う。
するとそこには憂い顔ではあるものの、見慣れたいつもの愛し気な姉が小首を傾げている。
円は額の汗を拭うとチキンな自分にフリーズを命じ、新たな登場人物に意識を集中することにした。
二年生の毛利さんと言えば、どこかで耳にしたことのある名前だったのだ。
「ハーフなのかしらね。
髪の赤いとってもきれいなお嬢さん。
“パガニーニの主題による狂詩曲第18変奏”が聞こえてきたわ」
それでピンときた。
二年生のラフマニノフが似合う美人な毛利さんと言えばアレだ。
一年男子の間でも早々にファンクラブが結成されたと仄聞する、毛利ルーシー先輩の事に違いない。
円はさっきフリーズを命じたチキンと別のチキンが、遠慮がちに羽をバタつかせて時を作るのを聞いた。
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