第2話 そして少年は少女と出会った 5

 知らない天井を見つめながらぼんやりしていると、双葉が医師を伴って戻って来た。

「あまり心配させないで頂戴」

双葉はまだ鼻声で目蓋も腫れたままだが、声音だけは大人のお姉さん風を装っている。

医師の手前もあるのだろう。

横たわる弟の胸に突っ伏して泣きじゃくるという大失態を演じてしまったのだ。

円の保護者を自ら任じる姉としては、権威を取り戻す方策で頭がいっぱいになっている。

そのことが円には丸分かりだ。

 ふたりの両親は父親の転勤に伴って海外に在住している。

両親が不在であれば、生活資金の管理や公的な書類の整理など家政の運営は大仕事になる。

となれば年長である双葉も重積を担っていよう。

だかしかし、日本に残された姉弟の生活全般の差配は実のところ円に託されている。

家政の実権は円が握っているのだ。

 円は「姉さんの面倒をしっかり見るのだぞ」と、両親から密かに因果を含められている。

それでも円より三歳年上の双葉は、姉である自分が保護者兼親代わりと自認している。

姉たる自分が円の人生を管理監督する独裁的権限を持っている。

そう確信している。

すっかり勘違いな双葉だった。

 双葉は常々、弟への影響力はロッテンマイヤーさんレベルの貫禄と威信が必要であると考えているらしい。

おかげで彼女が主催していると思い込んでいる円との日常は、溜息や苦笑の種と成る的外れで頓珍漢な演出が満載だった。

 実際の所、双葉はこの春音楽大学の一年生になったばかりの小娘なのだ。

成人の旗を掲げるにはまだ二年ばかり要する少女に過ぎない。

高校を卒業して女子大生としてのウオーミングアップを始めた芳紀まさに十八歳。

花のキャンパスライフを満喫すべきお年頃ではある。

 だが、せっかく女子大生になったと言うのに、双葉は残念な子だった。

今に至る何処かで、音大お嬢として歩むはずの道を大きく踏み誤った様なのだ。

 双葉は子供の頃から三歳年下の弟を溺愛している。

そのことは、ふたりを知る誰の目にも明らかだった。

加えて両親が日本に不在であることもあったろうか。

子供離れできないでいる生半可なママより、双葉の円に対する過干渉は丁寧な目配りが効いている。

 小さい頃は大好きな姉の後をヨチヨチと追いかけて、それこそ実の母親以上に姉べったりな円だった。

だが当たり前のことながら、小学校も高学年の頃には弟の姉への思慕はフラットに成った。

まるで憑き物が落ちるような様変わりだった。

それは思春期前夜の男子的にはごく自然な心の脱皮だったろう。

 ところが幾つになっても双葉の大脳には、変化も進歩も無かった。

高校生になった円は、既に声変わりもしてブラウンのシェーバーが欲しいなと思い始めている。

未だ背は低いが大人の階段だって登ろうと思えば登れてしまう。

双葉はそんな円と姉一途だった四頭身のまるまっちぃ円を、全く同一の愛玩動物として演算処理している節がある。

 円が少しでも油断すれば、風呂にも平気で一緒に入ろうとする。

毎夜添い寝をしながら絶対音感が紡ぎ出す澄んだ美声で子守唄を歌いたがる。

そんな勘違い天然怪女こそが、近所でも気立ての良いお嬢さんと評判な華の女子大生、加納双葉の正体だった。

 双葉は円が帰宅すると、まるで背後霊のように付きまとって、何くれと世話を焼きたがる。

それは幼稚園児の迂闊で至らぬぽんつくな振舞いをフォローする。

その為だけに、ハラハラと心配しながらも嬉しそうに後を追う母親の姿そのものだった。

両親から円の管理育成という大任を授かったと信じ込んでいる双葉である。

彼女にとって幼児の面倒を見る可愛いママこそが、思い描いた理想の保護者像なのだろう。

 先も触れた通り、円は両親から『天然ハトポッポな双葉の行動を監視制御せよ』との密命を受けている。

そのための経費と報酬も支給されている。

双葉は円がスポンサーと交わした楽屋裏での口裏合わせを一切知らない。

知らぬが仏とはよく言ったものである。

日々繰り広げられる方向性を誤った親権者気取りに浮かれる双葉の言動は、だから時として円をどうにもやりきれない気分にさせる。

 円が学校から病院へと緊急搬送された日もそうだった。 

午後のレッスンを終えるや否や愛しい弟の面倒を見るために、双葉は友人とお茶の一つもせずに大学から直帰だった。

買い物を済ませていそいそと帰宅したタイミングで、円の奇禍を報じる電話が入ったのだった。

双葉に言わせれば、そのとき頭の中に“オーゼの死”が朗々と湧き上がり、一瞬確かに心臓の鼓動が止まったらしい。

『僕もペールギュントみたいに、ふーちゃんから離れて放浪の旅に出たいものだぜ』

双葉から注ぎ込まれるファニー・メンデルスゾーンめいた姉としては少々重すぎる愛に内心毒づく円である。

同病相憐れむ体でフェリックスの憂鬱も想像してみる。

だが冗談にせよ「姉を鬱陶しいと思っています」などとは、ゆめゆめ口にできるものでは無い。

ありとあらゆる後難が恐ろし過ぎた。

 電話を切った双葉は瀕死の円を看取るべく、取るものも取りあえず弟が搬送された救急病院に駆けつけた。

因みに病院に辿り着くまで頭の中で鳴り響いていたのはK.183モーツアルトの“交響曲第25番第一楽章”だったという。

 終わり良ければ総て良し。

双葉の脳内暴走で死亡確定だった円は、弟を愛する姉の真摯な祈りが天に通じた結果、からくも命を取り留めた。

 そう言う事になった。

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