第2話 そして少年は少女と出会った 3
両親が日本に居ないせいなのだろう。
双葉には『立派に保護者を務めているのだぞ』と言う内外へのアピールの過ぎるところがある。
円に対してはいつもカナリアの様に口喧しい。
更には猫みたいに偉そうな上から目線が、最近とみに目立つようになってもいる。
「『大学生に成って弟さんの面倒も良く見るし、すっかり見違えるほど大人になったわね双葉ちゃん』とご近所さんにも評判!」
ことある度に鼻の穴を膨らませて双葉はそう自賛する。
ところが同じご近所さんが円に対しては「双葉ちゃんはいつまでも無邪気で可愛らしいわね。円ちゃんがしっかりお姉さんを支えてあげないとね」と声を潜めて耳打ちする。
ご近所さんの本音は多分円に耳打ちした方だろう。
真実の声を内緒にしてやるのは、円なりの惻隠の情、武士の情けだ。
思春期真っ盛りの男子高校生としては、雅趣とも言える姉の天真爛漫さを愛でる大人の情趣がある訳も無い。
小鳥や小動物と同じくらい実生活ではまったく頼りにならない姉である。
円にはただただ煩わしく鬱陶しい存在として認識されている。
だが、病室とは言え看護師や医師の目が降り注ぐ公共の場である。
今こうして水っぽい目と鼻を、子供のように赤く腫らした姉の間抜け面はどうだろう。
この人にはプライドと言うものがないのだろうか。
円は久方振りに姉のことが心配になった。
ベショベショになった今の姉には、家では家政の長、外では女子大生と言う分際で胸を張り背伸びをする加納双葉女史の片鱗も伺えない。
ブラコンの張り切り少女が本来こうありたいと願っている外面は、周到に構築したペルソナではないということだ。
円はやれやれと心の中で肩をすくめる。
双葉はおもむろにハンカチを取り出して涙を拭うと、思い切りよく鼻をかんだ。
それから、今見聞きしたことは他言無用とばかりに円を睨み付け、お得意のお澄まし顔を作って見せる。
「生意気な円。
あなたに頭を撫でられている間“マイ・フーリッシュ・ハート”が聞こえていたわ」
「ビル・エバンス?」
「そっ」
気を失っていた弟に話掛ける第一声としては奇妙なものだ。
幼子の様に大泣きした小娘が口にして良い曲と名前とも思えない。
実は、双葉の大脳はかなり変わっている。
なんとなれば、時々の感情に合わせた音楽が、折々の局面で必ず脳内再生されるのだ。
双葉の頭内では、そんな少し不気味な機能が常時稼働状態にある。
この場ではビル・エバンスが彼女の情理に心地よく共鳴したのだろう。
円は双葉の頭脳が搭載するこのへんてこな癖を、単にジュークボックスと呼んでいる。
喜怒哀楽が音楽に変換されるという不思議な知覚現象は、精神医学で言うところの共感覚の一種だろうと円は踏んでいる。
実害は無いし面白くもあるので、円はこの姉の癖に対してだけは好意的だった。
大人の女風なセリフをかましてみたものの、まだ弟に対する姉の威厳が足りないと感じたのだろう。
深呼吸をした後、双葉は背筋を伸ばして大きな目でしゃなりと微笑んでみせる。
彼女は円の瞳を覗き込み、彼の頬を揃えた指先で軽く叩く。
「ちょっと待っててね」
いつもよりオクターブ低い声で言い置くと席を外した。
気取りかえった歩様で立ち去ろうとする双葉からzuzuzuと音がする。
『そこで鼻をすすっちゃいかんだろ。ジョルジュ・サンド気取りが台無しだぜ』
円は心の中でツッコミを入れる。
そうして、どうにも様にならないのに、出来る女キャラにこだわる双葉を生温かい目線で見送った。
記憶と言うものは本当にままならぬものだ。
それが不意に起きたアクシデントにまつわるものならばなおさらだろう。
渦中の人間にとっては、本来連続しているはずの記憶のいちいちである。
それらが飛び飛びに成った映像の断片でしか想起できないとすればどうだろう。
円は今回の奇禍でそれを痛い程に思い知ることとなった。
思い返して見れば不思議はない。
円が踊り場で衝突した巨大なマシュマロの様に柔らかな物体が、人であることは明らかだ。
顔は見ていない。
だが、赤みがかった色の浅い長めの髪と涼やかなバーベナの香りを合わせれば答えは見えてくる。
円がぶつかった対象は女性である。
そのことに間違いは無いだろう。
円は女性を可憐な女子生徒であると心に言い聞かせた。
もしも暫定女子生徒と思しき未確認衝突物体が実は男性や年配の女性教師であったなら悲劇が喜劇に変わる。
そうであればこの体験は、円にとって遅効性のトラウマになるかもしれない。
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