第2話 そして少年は少女と出会った 2

 生物室を後にした円は気力機関のスロットをいっぱいに開き文字通り何も考えず、ラグタイムだけを頼りに階段を駆け下りる。

踊り場で右に旋回し顔が正面を向いた瞬間のことだった。

それが何であるか認識する間も無く、円はふにゃりとした弾みを身体の前面に感じた。

円は反射的にその妙な弾力がある物体を抱きしめてしまう。

次いでフワッと鼻先に漂う香りをバーベナかなと思った刹那。

円の意識は電源が落ちたテレビの様に唐突に途絶えた。

 円は小学生の時に、意識を失くした経験が何度かある。

つまらない経験だが、円はそれを根拠に気絶のオーソリティであることを密かに自認している。

けれどもこの時は小学生の頃とは全く様相を異にした。

子供の頃に体験した失神はすぐに目が覚めた。瞼を開けると高く澄んだ青空や第八航空軍のB17Fが網膜に写り込んだりもした(とも動物病院の日常と加納円の非日常)。

ところが今回は蛍光灯の冷たい光と知らない天井が視界の先にぼんやりと存在するだけだ。

『いよいよ僕も眼鏡が必要かな』などと頓珍漢なことを考えていると、消毒薬の匂いが微かに嗅覚を刺激した。

 人の気配がするので何気なく首を傾けると姉がいた。

姉の双葉がぼんやりとした輪郭線で佇んでいる。

椅子に座って身を乗り出しているのだろう。

彼女の浅い吐息が頬に感じられる。

ライムの香りがした。

「フーちゃん。

顔近い」

双葉は目を覚ました円の一言で我に返ったようだ。

瞬間的にフッと呆けた表情をするがたちまち顔を歪める。

そして横たわる弟の胸の上に突っ伏して小さな子供のように泣き出した。 

 双葉は意味不明の何事かを、しゃくり上げながら円に訴え掛け続ける。

だが状況が今一つ理解できない円には何のことやらさっぱりだ。

事情は分からないが姉にはひどく心配をかけたのだろう。

そのことだけは理解した。

すると常にはない懐かしさにも似た慈心が胸に込み上げてくる。

円はブランケットの上に広がる双葉の豊かな髪越しに、彼女の頭を優しく撫で始めた。

 しばらくの間、やんわりと穏やかな時間が流れた。

意識を失っていた時間は、円の睡眠不足の解消に一役買ったようだ。

微かな頭痛が不快なものの、円の思考は朝方に比べれば霧が晴れたように明晰だ。

こうして心身の疲労が気絶で解消されるとは驚きである。

だが、いきなり泣き出した姉に対して感じる素直で優しい愛情と言い。

身に降り掛かった異常事態への冷静な目線と言い。

自分の中にある何かが決定的に変だった。

『自意識とは別建てで無自覚に存在する』

そうフロイトやらユングやらが唱える無意識というやつが、いきなり新たな属性に目覚めたかのような感じだ。

円には取り敢えず検証も説明もできない何やら抹香臭い変化なのだ。

 今までに経験したことのない奇妙な気持ち悪さは、円にとって滅法興味深い事象と言える。

けれども今の所、分析の糸口さえ見えないので、それについて考えることはやめた。

円は不思議案件をあっさり先送りにすることにする。

 当面姉の頭を撫でる事しか思いつかない円だった。

その円が手を動かしながら次に手繰り寄せたのは、自分の身に起きた状況への思案だ。

学校の階段で自分の身に何事か状況が発生した。

だが状況発生後の記憶が一切無い。

今自分は病院のベッドらしき所に横たわっている。

そうである以上、自分が遭遇した状況は何かの災難であるのは確かなことだろう。

そうであるならば、引き起こされた状況=降り掛かった災難の起承転結を知りたい。

災難の内せめて起承くらいまでは把握しようではないかと言う思案だ。

 状況の発端はどんな様子だったろう。

曖昧な記憶をたどりながらそれを反駁整理している間に、いつしか双葉の嗚咽も収まった。

タイミングを図ったのだろうか。

上目使いで円の様子を伺うと、少しバツの悪そうな表情で面を上げる。

双葉は円から視線をそらし乱れた髪をかき上げた。

 双葉の涙と鼻水でてらつく浮腫んだ顔は、とても人様には見せられない位に酷い有様だ。

だがそれでもなお、彼女の整った面差しを器量よしだと持て囃(はや)すローカルな世評に揺らぎはなかろう。

姉の美貌に異議を差し挟む材料となる瑕疵は見当たらなかった。

双葉には二言も三言もある円が『ちょっと可愛いかも』と思ったのだ。

円の姉に対する評価の内に魔が差すくらいだから、そのことに間違いはなかろう。

すくすく育てば彼女の前途が揚々たるものであることは間違いない。

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