第2話 そして少年は少女と出会った 1

 その朝加納円は疲労の澱を、まるで田子の浦のヘドロみたいにどんよりとまとっていた。

疲労の澱は眼球やら脳髄やら気力やら、円を構成する諸々の要素がパッケージされた全身全霊の内に沈殿している。

そいつは栄養ドリンクの一本や二本程度ではとても掬い出せそうにない。

 前夜は、久方ぶりにラヂオの深夜放送にダイアルを合わせた。

そして丑三つ時を過ぎる頃まで、ついつい耳を傾けてしまった。

受験闘争の日々以来の夜更かしだが、自己欺瞞を承知の上で古典の小テストを口実とした。

自業自得ながら、今朝の円はいつも以上に寝不足でとことん気怠い。

 こうして円は夜更かしと言う内々の事情を抱えている。

だがパワーウォーキングは今日も今日とて滞りなく遂行された。

幼馴染の同窓生、朝倉善美に引き摺られての有酸素運動は、円にとって今や朝の恒例行事となっている。

もともとやりたくない強制競歩である。

それが円の意欲や活力を、体力と共にしりしりと削り込んでいることは想像に難くない。

この朝、保健室への直行がちらりと円の脳裏を横切ったのは無理もないことだろう。

 

 午前中いっぱい青雲の血気をば、決定的に欠いた円ではある。

スクエアな大人がすべからく、そこいらの少年に期待する無駄な元気のことだ。

そんな円は活動限界間近で四限の授業、生物Ⅰを終えた。

気力を使い果たした円が実習室の後片付け当番を済ませ、教室に戻ろうとする時だった。

 状況が発生した。

 弁当を使ったら机に伏せて一眠りしてやろうと思った。

そう思い気がせくあまり、そそくさと教室へ急ごうとする。

それが悪かったのだろうか。

それとも眠気覚ましにと、ラグタイムのリズムを取りながら階段を下りる。

それが迂闊だったのだろうか。

何れにせよ、円が最初の踊り場を回り込んだところで事故は起きた。

もちろん、スコット・ジョプリンに罪は無い。

 国府高校の校舎は少し変わった構造をしている。

建物の外観自体は何処と言った特徴もない築十年鉄筋コンクリート三階建ての建造物だ。

だが面白いことに、各階の廊下両端の行き止まりには、教科ごとの教員室と実験もしくは演習室が設えられている。

そうした間取りは普通の高校とはかなり趣を異にしていたろう。

まるで大学の研究室と実習室のような構成である。

 そもそも国府高校には普通の学校の様に、教師全員が集う教員室と名打った大部屋が存在しない。

先生達は専門教科ごとに分かれたあじとに机を持っている。

 階段は建物両端の教科室を出たところに設えられている。

その構えは何処の学校にもある、踊り場が付いたありふれたコンクリート製の段々だ。

 出会い頭という唐突な邂逅は“出会い”というより“事故”に分類されるべき状況だろう。

衝突の主体が車と車あるいは人と車であれば、もうこれは新聞の社会面を飾る事象となる。

人死にが出ようものなら、事件とよばれる局面にまで伸びしろのある出来事であるのは確かなことだ。

またそれが少年と少女であればどうだろう。

男女の心が入れ替わったり、トーストを咥えた少女のパンツが見えることだってあるかもしれない。

そうなれば波乱含みのボーイミーツガール的な物語が発生することは必定だ。 

 加納円と言う少年は結して運の悪い男子ではなかったはずだ。

しかし円は事故を端緒として、宝くじ当選など茶柱が立つレベルの些事。

そうとしか思えない、一般常識の枠を外れるとんでもない運命を背負い込むことになる。

その運命の道筋は誰が聞いても、奇想天外としか言いようがないものだろう。

そのことは、あるいは、天からもたらされた幸運と評する向きがあるかもしれない。

だが、少なくとも当事者である加納円はそうは考えなかった。

ことの真相が徐々に明らかになるにつれ、円は溜息をつきながら肩を落とすことになる。

「不幸とまでは言わないけれど不運だったな」自分が取り込まれた超常的宿命について、円はそう慨嘆することになるのだ。

 円は小学生の時に遭遇した椿事(とも動物病院の日常と加納円の非日常)以来、事なかれ主義をこよなく愛するようになっている。

そうした円的人生観からすればその事故は、できれば何処か他所へ持ち込んで欲しい案件だった。

『例えば知力体力に共に優れた朝倉善美のような主人公キャラこそが相応しい』

円は心の底からそう思う。

同時代劇場で無理なく主役を張れる善美みたいな人間なら是非もない。

歴史を跨ぐ冒険への入り口が目の前に開いていれば、喜び勇んで飛び込んで行くに違いない。

だが無気力なモブであることを自覚し、それに慣れてしまった円にとってはどうだろう。

歴史を跨ぐ冒険への入り口など、円には永年月にわたる厄介で迷惑な運命の振り出しに過ぎなかったのだ。

 

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