第21話 油断
今度の対戦相手古林6段の棋譜を片手に碁盤に碁石を並べていく。
「タイトル経験者になると、粘りというか勝つことへの執念がすごいね」
形勢が不利になっても最後まであきらめない気持ちが、棋譜を並べているだけでも伝わってくる。
3年前に失冠したものの、それまでは女流名人をはじめタイトル通算5期と女流囲碁界を引っ張ってきた超がつくほど一流棋士で、棋譜を並べながらその強さを感じていた。
「私も去年あたったけど、最初から最後まで気が抜けない感じで、疲れたことは覚えてる。失冠したとはいえ、全然衰えてないよね、あの人」
横で同じように次の対戦相手の棋譜を並べている、香澄が話しかけてきた。
「で、香澄は勝ったの?」
「1勝1敗。負けた時はあっさり押し切られて負けたけど、勝った時は勝負手を連発されて大変だった」
最近練習対局は五分五分の香澄が勝てるなら、自分にもチャンスがあるかもと思った。
◇ ◇ ◇
手合い日当日、女流棋聖戦の準決勝、ネット中継もあるということでいつも以上に気合いを入れて、日本棋院に入った。
「よろしくお願いいたします」
先に着ていた古林6段に挨拶をして着座した。好戦的な棋風とは対象的に、にこやかな笑顔で挨拶を返してくれた、古林6段に思わず親しみやすさを感じてしまう。
開始時刻となりニギって理央の先番となり、黒石を右上隅小目に置いて対局は始まった。対局が始まると、古林6段は先ほどのにこやかな笑顔は消え、勝負師の顔になっていた。
好戦的な棋風の小林6段は序盤から下辺へと打ち込み仕掛けてきた。女流棋聖戦の持ち時間は1手30秒、1分単位の考慮時間10回といわゆるテレビ囲碁トーナメント方式の早碁だ。
その少ない持ち時間の中、ツケて、キラれたときにノビてと応手を考える。
数手進んだところで、古林6段にミスが出た。白のトビに対して黒から割り込む筋が発生して、白石5子をとることができた。
1手30秒、歴戦の古林6段と言えども誤算があったのかもしれない。これで、黒がかなりのポイントをあげることができた。
古林6段は、考慮時間3回をつぎ込んで、上辺に再び白石を打ち込み黒石を攻め始めた。
―――取りに行くのは際どい。ここは守ろう。
真正面から戦わなくてもリードしてるだし、無理に取りに行かなくてもいい、そんな思いが生まれた。悩んだ末、白を取りに行かず、コスんで先に黒の眼形を確保した。
その後も白は、下辺で損した分取り返すため積極的に攻め続けてきた。防戦一方となってしまったが、大きな損をすることなく古林6段の猛攻をしのぐ時間が続いていく。
―――追いつかれている?むしろ逆転されてる?
手を読んで形成判断までするには、1手30秒は短い。リードしているので、潰されないことを第一に考えていたら、いつの間にか地で追いつかれ始めていた。
局面はすでにヨセの段階に移っている。序盤大量リードだったはずが、いつのまにかヨセ勝負になっていた。
ヤバい。どうにかしないと。焦る気持ちの中で打った、2線のハイがまずかった。白は2線のハイを抑えず、他に回った。打たれた後にそちらの方が大きいことに気づいた。
◇ ◇ ◇
終局して整地して、白の1目半勝ちが確定した。
「多分、ここで逆転したかな?」
古林6段が整地した盤面のまま、黒がヨセを間違った場所を指差した。うなずいて返事はしたものの、逆転負けのショックからまだ立ち直れていない。
「ここ、反撃してくるかと思ったけど受けてくれて、ちょっと助かったかな」
「出て切ったあとが、どうなるか自信がなくて・・・」
古林6段が初手から検討を始めたが、端的に言えば序盤のリードに胡坐をかいて、油断してたら追いつかれて、焦ったミスして負けたという、恥ずかしいとしか言えない碁だったので、検討の間は針のムシロだった。
検討している間もこの碁はネット中継されて、プロアマ問わずに見られていると思うと、さらに恥ずかしい気持ちになる。
こんな碁、棋譜を残さずに消してしまえるなら、消してしまいたい。
◇ ◇ ◇
羞恥プレイのような検討の時間が終わると、すぐにトイレに駆け込んだ。自然と涙がでてくる。理人の時も逆転負けはもちろんあった。
それは相手に上手い手を打たれたり、自分の読み不足であり、実力の違いと割り切れた。でも、今回は違う。戦うことを放棄して負けた。
「相変わらず、心の弱さは変わっておらんの~」
「神様!」
「理人の時は自分の読みに自信がなく妥協した手を打って負けていたが、理央になってからは、今日みたいに自分の強さを過信して調子に乗っておる」
たしかに、神様の言う通りだ。本田9段の時も序盤リードの油断で、相手の意図を読まずに安易に対応して、半目勝負までもつれ込んでしまった。
才能だけでは勝てない。囲碁の世界は厳しい。
◇ ◇ ◇
ショックを受けたまま家に帰ると、今日手合いのなかった香澄が出迎えてくれた。
「寒かったでしょ。今日はビーフシチューにしたよ。もう少しで、できるから」
「ありがとう、着替えてくるね」
部屋着に着替えた後、ベッドに倒れこんで天井を見上げた。まだ、気持ちが切り替わっていない。今日の碁を振り返る気にはならないが、目を瞑ると自然と今日の盤面が浮かんでくる。
もう思い出したくもないのに。
―――なんか、息苦しい!
いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。急に呼吸が苦しくなり、目を開けると香澄の顔があった。
「おっ、目を覚ましたね。ご飯できたよ、食べよ」
「なんで、寝ている間にキスするんだよ」
「眠れる森の美女ごっこ、やってるのかと思ったけど、違った?」
香澄は笑いながら部屋を出て行った。
「いただきます」
香澄の作ってくれたビーフシチューは美味しかった。香澄はもうすぐクリスマスだねと、話している。
いつも手合いの後はどうだったと聞いてくるのに、今日は碁の話題を振ってこない。香澄もネット中継を見て結果を知ってるはずなのに、そのことについても触れてこない。
あえていつもの日常で、迎えいれてくれた香澄の優しさを感じた。その日の夜、香澄はいつもより優しく理央の体を慰めてくれた。
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