第10話 指導碁
朝目が覚めるとダブルベッドの横で寝ていた香澄の姿はなかった。ベッドから降り寝室から出てリビングに行くと、エプロン姿の香澄は朝食の準備を始めていた。
「おはよ。朝ごはんできたら、起こしにいこうと思ってた」
「ごめん。土曜日で学校休みと思ったら寝過ごしちゃった」
香澄は引っ越しが決まるとすぐに引っ越しの準備も始めた。テレビや冷蔵庫などの家具は、香澄の部屋にあるのを使うことにしたので全部処分した。
理人の部屋から持っていくのは囲碁関連の書籍と服などぐらいで、それを段ボールに詰めて宅配便に預けるだけで簡単に片付いた。
ベッドも持っていくより新しく買いなおした方が安いので、処分することにした。
新しいベッドを買いに行くまでの間は、香澄のダブルベッドで寝ることになってしまった。
そんな感じで二人での生活が始まって1週間が経ったが、いつも香澄の方が先に起きて朝食の準備をしてくれている。家賃や生活費は折半という約束になっているが、学校があるからいいよと言って家事はほとんど香澄がやってくれているから、申し訳なく感じている。
「理央、今日指導碁のバイトでしょ」
朝食のトーストをかじったところで、香澄が聞いてきた。プロになったばかりで収入の少ない理央を心配して、香澄のツテで碁会所の指導碁のバイトを紹介してくれた。
「うん。昼から行ってくるね。ところでベッドはまだ買わなくていいの?今日学校休みだから、午前中見てきてもいいけど?」
「むしろ、ベッドいる?そんなに、私と寝るのが嫌?」
嫌かと聞かれると、真っ向から否定はしにくい。一緒に寝たい香澄の作戦にはまった気もするが、寝る時に香澄から体をなでられるのも、気持ちよく感じるようになった。結局、今のまま二人で寝ることを続けることにした。
◇ ◇ ◇
「こんにちは」
「先生、今日はよろしくお願いします」
雑居ビルの3階にある碁会所のドアをあけると、白髪の男性がにこやかに迎え入れてくれた。この人が席亭と呼ばれる、ここのオーナーのようだ。
「じゃそこに座ってもらって、3面打ちでお願いします」
コの字型に机が並べてあり、それぞれに1面ずつ碁盤が置いてある。その中に入り、3人と同時に対局することになる。
プロ棋士になってから指導碁でよばれると、1対1で対局することはまれで、だいたい複数の人と同時に対局することが多い。
理央が座る椅子には、クッションがセットされていた。
「何か飲まれますか?お茶、コーヒー、紅茶がありますよ」
「じゃ、お茶をお願いします」
「冷房、大丈夫ですか?暑かったり、寒かったりしたら言ってください」
席亭さんは、お茶と一緒にカステラも持ってきてくれた。理人の時も指導碁のバイトは何回も行ったが、これまでとは違う丁寧な扱いに戸惑いすら感じる。
もちろんプロ棋士として雑には扱われないが、ビジネスライクというか仕事って感じだったが、ここでは大切に扱われている感じがする。
◇ ◇ ◇
「ここは生きているので、手入れは必要なかったですね」
「いや~、死活が分からなくて一手入れてしまいました」
「だから詰碁は大事なんですよ。簡単なのでいいから、毎日やると力つきますよ」
指導碁を打った高齢男性が、苦笑いを浮かべている。局後の打った手順を並べなおしながら、どうすればよかったかを教えていく。
「さすがプロですね。3面打ちでも、全部覚えてるんですね」
一緒に3面打ちを打った小太りの中年男性が賛美の声をあげた。理人もプロになるまでは3面打ちの棋譜なんて覚えられるのか不安に思っていたが、実際やり始めるとどうにかなった。
高段者になればなるほど、予想外の手というのは減っていく。予想外だったところだけ覚えておけば、あとは流れでなんとなく覚えられる。
「藤沢先生、疲れたでしょ。一休みされますか」
3面打ちを2回こなして、たしかに少し疲れてきているので言葉に甘えて休憩をとることにした。休憩をとるというと、席亭さんがコーヒーとケーキを持ってきてくれた。
◇ ◇ ◇
休憩を終えて3面打ちの最後の3回目となり、気合いを入れなおして席に座った。理央の前の席に、小学生らしき少年が座った。
「君、いくつ?」
「9歳です。4子でお願いします」
4子ということは5段か。9歳で5段。なかなか強そうだ。囲碁の場合、若くして才能を開花させる子は多い。
中学生でプロ入りは普通のことで、小学生のプロも数名いる。理人は院生の年齢制限の14歳までにプロ入りはできず、15歳の時に外来受験からプロ入りして、周りから苦労人と呼ばれたものだった。
「この子はプロを目指したいって言っているので、よろしくお願いします」
席亭さんがそっと耳打ちしてくれた。プロを目指していると分かった以上、指導碁にも気合が入る。
対局が始まり、10手ほど進んだところで、ある程度の棋力はわかってくる。5子の右隣と6子の左隣は、置石も妥当なところだったので、前の子に意識を集中することにした。
普段指導碁のときは、相手が甘い手を打った時に少しずつ差を詰めていくようにしているが、プロ志望とわかればプロの厳しさを教えるためにも積極的に仕掛けていくことにした。
厳しい手を連発して、難解で読みが必要な展開に持ち込む。相手もこちらの意図に気づいたのか、真剣な表情で盤面を見つめている。
◇ ◇ ◇
中央の黒石が死んだところで、少年が投了を告げた。
「ここは切って攻撃をしかける前に、一度自陣を強化しとくべきだったね」
普段、指導碁では大石を取りにはいかないようにはしているが、成り行き上取りに行ってしまった。
他の人と同じように並べなおしながら対局を振り返っていると、少年の目には涙が浮かんでいた。
9歳で5段。プロになるにはまだ力は足りないが、この子はプロになれそう気がする。
◇ ◇ ◇
「良かったな、来月も指導碁の依頼が入って」
帰り道、神様が話しかけてきた。帰り際席亭さんから、毎月1回の指導碁を依頼された。不安定なプロの世界で、定期収入が生まれるのは嬉しい。
「同じ指導碁でも、理人の時はかなり扱いが違うよな。お土産までもらっちゃった」
対局した人からお菓子の差し入れをたくさんいただいて、食べきれないので持ち帰ることにした。これも、理人の時にはなかったことだ。
「女の子って、得だな」
神様に女子高生にしてもらって、むしろ良かったかもしれないと思い始めてきた。
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