第8話 手合い

 手合いと呼ばれる公式戦の対局がある朝起きると、パンに牛乳と軽めの朝食をとりながら、詰碁を解き眠っていた頭を徐々に起こしていく。理人だった時からのルーティンだ。

 理央として初めての手合いということもあり、ちょっと緊張する。


 手合いのある日本棋院へと家を出ようとしたとき、香澄から「頑張ってね」とメッセージが届いた。

 今日の手合いを気にかけてくれていたことが嬉しかった。


 ◇ ◇ ◇


「爺さん、そっちじゃないぞ」


 棋院の最寄り駅について改札を抜けたあと、神様は棋院と逆の方へと歩き出したので思わず呼び止めた。

 待ちゆく人が変な目で見られて恥ずかしかった。


「―――ったく、囲碁の神様のくせして、棋院の場所知らないの?」

「すまんの、久しぶりで忘れとった」


 対局が始まると不正防止のため外出ができなくなるので、行く途中のコンビニでお茶やお昼ご飯などを買って、日本棋院へと向かった。


「そういえば、俺にとりつく前は誰にとりついていたんだ?」


 周りに誰もいないのを確認して、神様に話しかけた。


「とりつくって幽霊みたいに言うのではない。見守っていると言え」


 怒られてしまった。神様は意外と繊細のようだ。そんのあと神様は20年ぐらい前の名人の名をあげた。

 理人が囲碁を始めたころの名人で憧れの存在でもあり、いまでもサインしてもらった色紙は部屋に飾ってある。


「でも、その先生は今も現役だろ、一緒にいなくて良いの?」

「儂が一緒に入れるのは1年間だけだ。その間に才能を咲かせないと、もとにもどるぞ。時間はないぞ、頑張って精進せい」


 名人の後の20年間、授かった才能を生かせなかった人も大勢いるようだ。


 ◇ ◇ ◇


 9時半に日本棋院につくと不正防止のためにスマホを預ける。そのあと対局室へと行き、10時の対局開始に備える。

 今日の対戦相手は工藤5段、理人の時にも対戦したことがありその時は負けてしまったので、理央の力を試すにはちょうどいい相手だ。


「藤沢さん、おはよ。今日はよろしくね」

「工藤先生、おはようございます」


 遅れてやってきた工藤5段も碁盤の前に座り、お茶や扇子など対局グッズの準備を始めた。理央もお茶とおやつを出して横に置き、ひざ掛けをとりだした。


 10時になり一斉に対局が始まった。ニギリで黒番があたった工藤5段が右上隅に初手を打ち対局が始まった。


 序盤は地を稼ぐ理央に対して工藤5段は厚みを築き、形勢は五分五分と言ったところだった。

 厚みを生かした攻めが工藤5段の持ち味で、理人の時も後半厳しい攻めに遭い投了に追い込まれてしまった。

 その反省を生かし、地を稼ぎつつも一方的に攻められないように着手を勧めていく。


 中盤過ぎその工藤5段の重厚な攻めが始まった。右辺の白石に対して、攻撃が始まった。

 ここは勝負所とみて考慮時間をたっぷり使うことにした。

 逃げようと思えば逃げられる。でも、そうすると黒地がついてしまう。中で生きるのは、無理。生きる筋がみつからない。


 ―――いっそ、捨ててしまうか。


 そんなことが脳裏に浮かんだ。あえて逃げずに黒に取らせることで、外回りに白石がきてそこに白地もつきそう。

 でも、石を捨てることで先に損をするので、本当にこれで勝てるか悩ましい。20分を超えて考え続けている。正確には考えているというより悩んでいる。

 残り時間も少なくなってきたので、やれるという自分の感覚を信じて捨て石作戦を実行した。


 着手した後、顔をあげると工藤5段は捨て石作戦は意外だったようで、驚いた表情をしていた。今度は工藤5段が長考に入った。

 神様は何をしているんだ。考えるのに一生懸命で、神様のことは頭になかった。工藤5段が長考している間、対局室を見渡してみると神様は、「美人過ぎる囲碁棋士」として話題となった女流棋士の隣にいた。


 ―――囲碁の神様なのに、囲碁には興味ないのかよ。


 心の中でそう毒づいた。まあ、神様から見れば人間の対局なんて、つまらないのかもしれない。


 ◇ ◇ ◇


「ありません」


 工藤5段が頭を下げ、投了を告げた。捨て石作戦が上手くいって、右辺の白石はとられたがその分中央に白地が着き、地合いで黒がコミと呼ばれるハンデが出せないのをみて、投了となった。


 喜びたいところだがそんな感情をだすのは相手に失礼なので、喜びを心の中だけにとどめた。


「ここを取りに行ったのがまずかったのかな?」


 工藤5段は、捨て石となった右辺を指差しながら言った。


「ちょっと迷ったんですけど、逃げると負けそうだから、逃げずに捨ててみました」

「若いと発想が柔軟だね」


 今までだと「逃げる」か「生きるか」の発想しかなかったが、今日は違った。自分の事だが、自分でないようにも感じる。


 ◇ ◇ ◇


 いつもなら対局に勝った後は、ちょっと高いビールを買って祝杯をあげるのが習慣だったが、女子高生の理央にはお酒は買えないので、ケーキを買って勝利を祝うことにした。


「神様は、イチゴを先に食べる派、最後に食べる派?」

「儂は先かな。美味しいものは先に食べたい」


 後に残しておく派の理人は、ショートケーキの生クリームを口に入れた。口の中に生クリームの甘さが広がっていく。対局の疲れが癒されていく。ビールも良かったが、対局後のケーキも癖になりそう。


 ケーキを食べ終わると、今日の対局を棋譜に起こし始めた。将棋は予選のうちから記録係が着くみたいだが、囲碁は予選の間は記録係がおらず棋譜の記録は自分でやることになる。いつか記録係がいる手合いで打つ日が来ることを願っている。


 棋譜を書きながら今日の対局を振り返ってみる。今思い返してみても、プロ入り後数少ない会心の一局だ。

 そんな思い陰ふけっていると、香澄から「どうだった?」とメッセージが届いた。

 会心の出来でもあったので単純に「勝ったよ」とだけ返事するのも味気なかったので、ちょうど書き終わった棋譜を写真で撮って送った。


 しばらくして、香澄から電話がかかってきた。


「見事な捨て石だね。理人じゃないみたい」

「ありがとう。自分でもそう思う」


 香澄に褒められて、鼻が高い気分になる。


「今度の土曜日、予定空いてる?空いているなら、一緒に練習しよ」

「いいよ」


 土曜日の約束をして、電話を切った。なんとなくいい感じでまわり始めた気がする。


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