第13話 さざなみの玉椿5

 随身ずいしんに声を掛けられ、頭中将は屋形やかたの中で顔を上げた。

 友人宅からの帰路、牛車は午後の喧騒に包まれた都大路を、悠々と進んでいるところだ。改めて右後方からの声に耳を澄ませてみると、「例の舞女まいひめが参っておりますが」とのこと。「参った」というからには、ただ往来で見掛けたという訳でなく、頭中将への面会を求めているということなのだろう。基本的には有り得ないことだが、知らぬ仲ではないと自らを納得させて、頭中将は牛車を停めるよう命じた。普段こういったことにうるさい紫苑しおんは捜査のため同行しておらず、一行は何の抵抗もなく、通りの端で立ち止まる。

「ご迷惑かとも思いましたが、改めてお礼を申し上げたいと思いまして」

 そう言って深々と頭を下げたのは、やはり椿つばきだった。今日は笛吹きの娘は連れておらず、重たそうな籠も抱えていない。興行主への使いを果たした帰り道、見覚えのある牛車に付き従う、見覚えのある者達に気付いて、勇気を出して声を掛けてみたのだという。言われてみれば、貴人の車の見分けは付かずとも、最初に椿達を助けに行かせたのは今も従う随身の一人なので、彼の顔さえ覚えていれば、頭中将に辿り着くのはたやすいことだっただろう。

 ――であるならば、やはり紫苑の見付けた連絡役らしき男こそ、最優先で探し出したいものだが。

 内心の懸念を隠したまま、頭中将は椿の殊勝な心掛けを労った。恩義を忘れぬというのは人間の美徳の一つである。それでなくとも、美女との縁は好ましい。

 御簾みす越しに対峙した椿はしかし、何事か言い出しかねるように、伏し目がちに微笑み返すのみだ。先日慌ただしく立ち去ったことを気にしていたのなら、これで用は済んだはず。それでも椿に辞去の気配はない。

 思い立ち、頭中将は従者達に命じて、牛車を人目に付きづらい場所へと移動させた。椿にも供を命じ、明るい雑木林で人払いをする。ここで、何か言いたげな彼女が話し出すのを待つつもりだったが、正直なところ、まったく下心がないとは言い切れない。

 屋形を降りた頭中将は、椿が黄色く紅葉し始めた木の枝に手を伸ばし、めつすがめつしているのに気付いた。

「――この木は、枝にも葉にも、抗菌や鎮静効果があるんです」

 近付いた頭中将に、椿はにこりと微笑んだ。甘い香りに鼻腔をくすぐられ、吸い寄せられるように、黒く光る果実に顔を寄せる。良い香りでしょう? と瞳を覗き込んでくる様は、まるで少女のように愛らしい。

「お化粧品の香料や、煮出してお茶にも出来るんですよ」

「随分詳しいのだな」

 知識の深さに圧倒され、素直に感心してみせた頭中将に対し、椿はいとけない笑みにわずかな翳りを生じさせた。聞けば、彼女の薬学の知識は、幼い頃から所属している田楽でんがく一座と懇意にしていた僧侶から得たものであるらしい。

「ほう。旅の一座とは、面白い繋がりを生むものなのだな」

 クロモジというその木の枝を手折りながら、頭中将は己が椿に一方ならぬ興味を抱いていることを認めない訳にはいかなくなっていた。それは椿の、世慣れた女性でありながら時折垣間見せるあどけなさ、或いは境遇以上の知的な話し振りといった、『落差の妙』に翻弄されているともいえる。

 甘さと清涼感の合わさった、不思議な芳香を放つ枝を手渡しながら、頭中将は美しい舞女に向き直った。

「では、そなたの舞いはどうだ。宮中の女舞いに通じるところがあるように思えるが」

 艶やかな美貌に浮かんだ影を気にしつつも、知りたいという欲求を抑えることが出来ない。それが舞いに関することであったのは、心のどこかに紅葉賀もみじのがの大役についてのわだかまりが消えずにいるためだろうか。

 クロモジの礼もそこそこに、椿はパッと表情を輝かせた。「お気付きになられました?」と弾む声には、頭中将の慧眼けいがんを称賛するような響きが含まれている。

「子供の頃、何か事情があって宮中を出されたという女性が一座に身を寄せておりまして。その方から教わったものです」

 ふむ、と頭中将は形の良い顎に手を当てた。舞いという共通の話題で互いを知れるのは好ましい。だが、宮中を出された女性というのは穏やかでない。その後流浪の身に落ちたというなら尚更だ。

「事情があって、か。何があったかは知らぬが、気の毒に」

 顔も知らぬ女性の身を案じた頭中将に、椿はふと視線を落とした。手の中でクロモジを弄びながら、ポツリと呟く。

遊芸人ゆげいにんに身を落とすからには、皆相応の事情があります」

「……そなたもか」

 尋ねずにはいられなかった男の心中を知ってか知らずか、椿は口の端に﨟長ろうたけた笑みを刷いた。

「――私の母も、遊芸人でしたから」

 それは、一般庶民としての生活さえ知らぬということだ。家というものを持たず、旅から旅への興業生活。椿の母に手を着けたのは誰だか知れぬが、彼女は生まれ落ちた瞬間から、芸事で身を立てる以外の選択肢を持っていない。遊芸人を親に持つとは、そういうことなのだろう。

 椿の母も舞踊家だったが、元々病弱な性質で、彼女が物心つく頃には、既に踊れなくなっていた。母と共に一座に置いてもらうための手段として、否応なく芸を身に着けざるを得なくなった椿の師こそが、先の宮中上がりの女性という訳だ。

 しかしその母も、椿が十の頃、流行り病で亡くなった。

「薬草に詳しくなったのも、何とか母を救えればと思っていたからですけど――気が付けば、一座の中で薬師の僧侶と一番懇意にしていたのは私だった」

「!」

 含みのある告白は、頭中将の胸を深く抉った。長じた椿は、そのまま僧侶の愛人になったということだろう。母のためにと、教えを乞うつもりで師事した相手のものに。

 長い睫毛を伏せたまま、椿は自虐と自己弁護の入り混じった表情で続ける。

「私達は、こういう生き方しか出来ないんです」

 頭中将は、咄嗟に椿の手を取った。それ以上の言葉を封じたかったからなのかもしれない。

 驚いて顔を上げた椿は、やはり美しい。

 椿に何の意図があって、己の過去をつまびらかにしたのかはわからないが、元より頭中将には、彼女を蔑むつもりはないし、そんな権利もない。

 これほどの美貌と舞いの才があっても、力のある男の庇護のもとでしか生きてゆけぬという非情な現実に、心が痛んだ。

 椿を憐れで愛おしいと思う気持ちが胸に迫る。だが、このまま強引に進んでしまえば、頭中将もその僧侶とやらと何も変わらない。

 見詰め合ったふたりの間を、ざわりと風が吹き抜ける。

 逡巡ののち、頭中将は静かに告げた。

「そなたが私を必要とするなら、いくらでも力になろう。――そなたが選ぶといい」

「!」

 椿がハッとしたように頬を染めた。美しい頭中将の、庶民の彼女に配慮した、貴族らしからぬ誠実な物言いに、心を打たれたのかもしれない。

 ややあって、恐る恐るといった様子で、掴んだ手が握り返される。了承の意であることは、場数を踏んだ頭中将でなくとも、一目瞭然だ。

「……本当は、何の用があって私の車を停めたのだ」

 悦びに胸を弾ませながら優しく囁くと、椿は恥ずかしそうに瞳を伏せる。

「お顔を拝見できれば、と、そう思っただけです……」

 ――可愛いことを言う。

 思うやいなや、頭中将は椿のしなやかな身体を、強く抱き寄せた。


                  ●


 薄闇に包まれたしとねの中で、頭中将は四の君を引き寄せた。

 素直に擦り寄ってくる細い身体が、たまらなく愛おしい。

 ここ一年ばかりで人並の夫婦のように良好な関係を築けた頭中将夫妻ではあるが、この数日、夫から妻への心遣いが殊に細やかなのは、悲しいかな、新しい愛人が出来たことと無縁ではない。

 牛車の中で事に及んだ後、「誤解しないで」と幾分か砕けた調子で、美しい舞女は言った。強い男の庇護の下でしか生きていけずとも、生まれを嘆くのではなく、受け入れて立ち向かう覚悟は出来ているのだと。

 これに頭中将がひどく感銘を受けたのは、どこか己にも覚えのある感情のように思われたためかもしれない。椿への情愛はいよいよ勝り、同時に湧いた後ろめたさのゆえに、正妻である四の君に普段以上に優しく振る舞う。男の身勝手以外の何ものでもないが、この時代の貴族らしさと言い換えられないこともない。

 汗に濡れた白い肌の感触を堪能しながら、妻の長い睫毛の落とす影を見るともなく眺めていると、不意に友人の言葉が脳裏をかすめる。

「――貴女を想う者、か……」

 まどろみかけていたらしい四の君が、舌足らずに「どうか致しまして?」と身じろぐ。瞬きを繰り返す様は常に似ずあどけなくて、愛しさを掻き立てられるようだ。

 どうしようもなく勝手な思惑は面に出さず、頭中将は「いや」と微笑んだ。えんの松原事件の折に心配を掛けたこともあって、今回は先に話を通しておこうと考えたのだ。

「貴女も聞き及んでいようが……」

 そう言って、頭中将は、昨今ちまたを賑わす河原院かわらいんでの事件について、またしても己の関与を匂わせるかのように、現場に薔薇そうびの花が残されるようになったことや、宴の松原の事件といい、己を恨む何者かの工作としか思われぬため、源氏の中将に心当たりはないかと尋ねた際のことなどを、あまり大袈裟に聞こえぬよう手短に話して聞かせた。

「通常の恨みつらみでなく、貴女を得たことを妬む者もいるのではないかと言われてね」

 厳しいところは多分にあるが、それでも四の君が美しく、家柄も良いのは間違いない。事件との関わりはどうあれ、このひとを妻にと望んだ男も、少なくはなかったのに違いない――眠気のことなど忘れてしまったかのように、己の話に耳を傾ける妻の真摯な表情を見ていると、友人の推論もあながち的外れということもないのではないかと思えてくる。

 夫の褒め言葉にのぼせ上がることもなく、四の君は、真剣な表情で考え込み始めた。

「ええ、もちろん、何度か文をいただいたことはありますけれど……」

 夫のためになるならばと、幾人か印象的だった人物や贈答品を挙げる。提示された名に覚えのある者もない者もあったが、嫉妬よりも誇らしさを感じるのは、頭中将が四の君から寄せられる愛情に微塵も疑念を抱いていないからなのかもしれない。

 「そういえば」と、四の君が胸元に顔を埋めてきた。そそられる仕草ではあるが、妻は甘えて来たのではなかったようだ。静かに息を吸い込んでから、小さく頷く。

麝香じゃこうを焚き染めた文をいただいたこともあります」

「麝香か……」

 またしても、と思いながら、頭中将は妻にならうように己の肩口を嗅いでみた。着物に焚き染めた香は、素肌にもしっかりと馴染んでいるようだ。紫苑も言っていた通り、日頃から頭中将の愛用しているものではないために、余計に周囲の記憶を喚起しやすいのかもしれない。同じようにして、独身時代の四の君に送られたという文も、持ち主の香りを移されたか――記憶に残る程であるからには、意中の女性の気を引くために、敢えて紙そのものにしっかりと焚き染めた可能性もある。

 何にしても、麝香はやはり、真犯人に肉薄できるほど有用な情報ではない。とはいえ、このところやたらと耳にする銘柄でもある。

「何と仰ったかしら……お名前までは思い出せませんけれど」

 お役に立てず申し訳ございません、と、四の君は長い睫毛を伏せた。気にすることはないとの意味を込めて、頭中将は妻を抱く腕に力を込める。

共寝ともねのさなかに、別な男を思い出させるようなことを言った私が愚かだった」

 優しく囁いて、頭中将は再び四の君を組み敷いた。


                  ●


 頭中将が見込んだ通り、紫苑は有益な情報を二つばかり仕入れて戻ってきた。

「僕、鳥辺野とりべのまで行ったんですからね!」

 庭に控えるやいなや、真っ先に台盤所だいばんどころの管理を任せている者に塩をまいてもらったのだと頬を膨らませた家礼けらいを、「よくやってくれた」と殊更大仰に労ってやると、誇らしげに薄い胸板を張る。可愛らしいものだと心中で笑いを噛み殺しながら、頭中将は報告を促した。

 紫苑は姿勢を正し、主に向き直る。

 頭中将から、事件現場に遺された手足の出所を探るよう命を受けた紫苑は、まず考えた。屋敷に出入りする商売人や、実家近辺での世間話にも、遺体が盗まれたとかその手足が切り取られた、或いは墓地が掘り返されたなどといった、薄気味悪い噂は出回っていない。幸いにも疫病が蔓延している時期ではなし、野犬が行き倒れた人の腕を咥えて走り回っているような、悲惨な光景を目にすることもない折だ。人目に付かず、死んだ人間の手足を入手できるような場所は一つしかない。

 紫苑は渋々、みやこから程近い葬送地である鳥辺野へ出向いてみた。身分の高い人々が荼毘だびに付される墓所であると同時に、庶民は土へと還るだけの風葬の地でもある。そこで紫苑は、葬地を管理する観音寺の下男と知己ちきを得た。見事「ここ最近、不自然に手足の切り取られたような遺体が増えたらしい」との情報を引き出せたのは、持ち前の人懐っこさの賜物である。もちろん、主の指導を容れて、上等な絹の着物をちらつかせながら「さる御方がお調べになっているので」と耳打ちしたことも、無縁ではあるまい。

 当然のことながら、手足を切り取られたのは、野晒しの庶民の遺体だ。鳥につつかれ、風雨に晒されながら、ゆっくりと腐敗していくはずの身体から、突然腕や足のみがきれいさっぱり消えてなくなっていれば、普通ならば人目に付く。しかし葬送地であれば、場所柄一般人が頻繁に出入りすることはないし、寺の関係者が気付かなければ、それで終わりだ――生きている間に失ったものだろうということで片が付いてしまう。頭中将ら京の貴族や上位の役人の耳に入っていないのも仕方のないことであり、もしもこれが一連の事件の犯人達の仕業なら、なかなかうまい手を考えたものだと言わざるを得ない。

 とはいえ、下男が遺体損壊についての情報を得ているくらいなのだから、このまま犯行を続けていれば、観音寺の方から然るべき報告が上がるのも時間の問題だろう。手口は似通っているのだし、人によっては河原院どころか宴の松原事件と結び付ける者が現れてもおかしくはない。

 というのも、どうやら遺体損壊とみられる事件は、一年ほど前にも行われたような形跡があったらしい。寺の者がおかしいと思い始めた頃にぷつりと途絶え、以来しばらくは収まっていたのだが、一年前と言えば、ちょうど宴の松原事件の頃のことだ。事件そのものは一回きりとはいえ、一人の遺体から四肢のすべてを持ち去れば、当然寺の者に見付かる確率も高くなる。日をおいて、人目に付きにくい場所に置かれた遺体から部分ごとにいただいたというのも、考えられない話ではない。当時の検非違使けびいしの「女の手足にしては筋肉質すぎる」という証言も、犯人の側に死人とはいえ人体を損壊することに抵抗があり、切り落としやすそうに見えれば性別までは構っていられなかったために起こった混在である、との推測も成り立ちそうだ。

 そして、一時は終息したかに思われた遺体の欠損は、このふた月前後で再び頻発し始めた。基本的に標的は女性だというから、一年の時を経て、犯人は冷静に、目立ちにくい場所に置かれた女性の遺体のみを選別できるだけの余裕を身に着けたのかもしれない。

 下男の話は、どれも主の推測を裏付けるものばかりで興味深かったが、紫苑が何より重視したのは、着物を受け取り、一層口の滑りの良くなった男が日々の愚痴混じりに語った、ある遺体についての話だ。

 風葬地には、ごく稀に、腐乱せず木乃伊ミイラ化する遺体もあるという。どういった作用が働くものかはわからないが、これが数か月前に置かれた女性の遺体にたまたま起こり、そしてその後忽然と消えた。日々打ち捨てられていく庶民の遺体まで僧侶達は関知しておらず、恐らくは自分以外に気付いた者はいないだろう、と。

「正確な日時はわからなくても、ちょうど子供が生まれた頃のことなので、時期ははっきり覚えてるそうです――秋の入りぐらいといえば、河原院で最初の事件が起こる直前ですよね!」

「でかした」

 褒めてくださいと言わんばかりに大きな瞳を輝かせる紫苑に、頭中将もまた率直に賛辞を述べた。これはまた、想像以上の働きだ。鳥辺野で遺体の手足を切り取る遺体損壊が頻発している。これを河原院と結び付けるまでは推測通りだったが、肝心の事件自体、現場に遺されるものにバラつきがあった。薔薇の花は置いておくとしても、第一の事件では「血を吸い尽くされた遺体」が丸ごと鴨居に吊るされていたのに対して、第二の事件以降は「切り取られた手足のみ」になっている。これはどちらかというと、宴の松原事件の手口に近い。その宴の松原事件は、およそ一年前のことになる。その頃に一度遺体損壊が続き、しばらく止んでいたところへ木乃伊化遺体の消失、そして再びの遺体損壊――二つの事件の時系列にぴたりと寄り添う流れは、そのまま同一犯の犯行であるとの、しっかりとした裏付けになるだろう。

 ああ、そうだ。木乃伊化した遺体など、風葬地であっても容易く見付かるものではない。

 おそらく犯人は、宴の松原事件との差別化を図る目的で、河原院事件では「全身の血を吸い尽くされた遺体」を用意した。それが捜査の目を眩ませるためなのかはわからない。だが、二度目からは入手が叶わず、やむなく宴の松原と同様の手段を取らざるを得なかったのだろう。運搬上の労苦という問題も考えられる。

 いずれにせよ、紫苑は頭中将の期待に見事応えてみせた。

「やはりお前は、私が見込んだ通りの男だ」

 捜査の成果と、己の見る目の確かさの両方に、頭中将はいたく満足した。「褒美を取らせねばなるまいな」とあどけなさを残す顔を覗き込むと、紫苑は無邪気に照れて見せる。功績が認められ、褒められたのが嬉しいのと、もしかしたら、一人前の男扱いして貰えたことも、喜びに拍車をかけているのかもしれない。

 彼が抱えた家族も含め、あれやこれやと甘やかす算段を頭中将が付け始めたところで、紫苑が思い出したように、ハッと瞳を見開いた。

「そ、それと、あのぅ……」

 珍しい歯切れの悪さに、頭中将も長い睫毛を瞬かせる。他にも何か情報を入手したのなら、何を言い澱むことがあろう。「お前らしくもない」と僅かに眉を顰めて、頭中将は諭した。

「いつも通り、言いたいように言えばよいではないか」

 紫苑はこれに、「僕って普段そんな感じなんですか」と表情を強張らせたが、主に叱責の意図のなさそうなことも理解できたらしく、やや複雑そうな表情を浮かべたまま、「これは、本当にただの噂話って感じなんですけど……」と続ける。

「椿さんの所の田楽一座に、幽霊話が持ち上がっているみたいです」

「――幽霊だと?」

 繰り返したのはほとんど無意識だった。思いも掛けないところでもたらされた愛人の名に、妙な胸騒ぎを覚える。

 紫苑の話によれば、夜半に精気のない様子の女が、一座の小屋の付近でスッと姿を消すのを見たという証言が、複数人から上がっているらしい。まだ騒ぎになるというほどではなく、紫苑もたまたま妹が近所の噂話として仕入れてきたものを聞かされただけなのだが、敢えて「女」と断定されていることが気に掛かり、念のためと現地へ赴いた。話を聞けた近隣住民のうち、大半はこの幽霊話を知らなかったが、「確かにこの目で見た」と豪語する一人の曰く、「勇気を出して声を掛けてみたが反応はなく、そのうちスウッと暗闇に掻き消えてしまった」とのことだ。これが時期的に、河原院で母と娘の二人がいちどきに浚われた、第三の事件の起こる前後であったらしい。

 紫苑が命じられた以上の調査をする気になったのは、主の頭中将が執心しているらしい椿の属する一座の話であったためだが、この場で彼女の名前を挙げてこれ以上の興味を煽ることと、ただもう単純に幽霊騒ぎの調査を新たに任じられることが嫌で、言い出しづらかったのだという。

「なんと……」

 椿との関係という点では、残念ながら既に徒労に終わっている紫苑の懸念には触れず、頭中将は重たい息を吐き出した。いくら聡明で先進的な思考力を備えているとはいっても、頭中将もこの時代の人間であり、超自然的存在を否定できるだけの根拠までは持っていない。椿がおかしな事態に巻き込まれているなら助けてやりたいし、万が一にも河原院事件と関わりがあるようなら、これもまた解明しなければならない問題ということになってくる。頭中将の失脚は、そのまま藤原家そのものの没落をも意味するのだから。

「紫苑、お前は一座を見張れ」

「ええっ、幽霊かもしれないのに!」

 改めて命を下した頭中将に、紫苑は肩を揺らして悲鳴を上げた。歪められた表情には、思わず憐れを催さずにはいられないほどの絶望が貼り付いている。

 幽霊話に怯えるとは、歳相応に子供らしいところもあるものだと微笑ましく感じながらも、頭中将は主として諭した。「おかしな固定観念を自分に植え付けるな」と。

「時期や女性の行方不明という点から、一連の事件に関係があるならば、これは人為的なもの。魑魅魍魎の類いであるはずがない」

 幽霊の正体はともかく、紫苑もこの目撃情報がこれまでの事件と関わりがあるのではないかという点においては、主と同意見であったらしい。少しだけ前向きになったのか、恐々といった様子で、上目遣いに頭中将を見上げてくる。

「関係がなかったら……?」

「……坊主でも陰陽師でも、好きな者を呼んでやる」

 言い切った頭中将に、紫苑は両目を硬く閉じて天を仰いだ。どんな葛藤があったものか、ややあって、観念したように息を吐き出す。

 わかりましたと応える声は、諦観に彩られていた。

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