第12話 さざなみの玉椿4

「これより先、当面の間は、供は不要だ」

 紫苑しおんを私室に呼び出し、頭中将は開口一番にそう告げた。

 度重なる無礼な言動が原因という訳ではない。魅力的な女人との出逢いに心弾ませていた直後、河原院かわらいんにて、新たな事件が発生したためだ。

 意気軒昂な頭中将に対し、紫苑は「嫌な予感がする」とばかりに、愛らしい顔を強張らせている。


 今回は、職を求めてみやこへやって来た両親と娘のうち、母娘の二人が一度に姿を消した。

 立て続けに奇怪な事件が起こったとあって、近隣住民は屋敷へ近付かなくなっていたが、地方からやって来た一家は、当然ながらそういった情報に疎かったものらしい。第一の事件の被害者達同様、一夜の宿を求めて河原院へ忍び込み、同じように被害に遭った。本来ならば京職きょうしきの方で、人が立ち入らぬよう警備を強化していなければならないはずなのだが、彼らも気味悪がって巡回を避けがちだったことも、一家にとっては不幸だったのだろう。

 現場には、母と娘のものらしき干からびた手足と共に、薔薇そうびの花が一輪残されていた。

 薔薇の花と言えば、と、捜査関係者一同が頭中将を念頭に浮かべたものの、えんの松原事件の冤罪のこともあって、今のところ露骨な噂にはなっていない。あまりに唐突で、「頭中将を疑え」と言わんばかりの稚拙な工作としか思われないということもある。

 とはいえ、その冤罪自体、頭中将が自身で証明してみせたものだ。他人の栄華を妬む者が、それがそもそも偽証であったなら? といった疑惑を抱くのは自明の理。このままでは遠からず、先の事件の時のように、頭中将は鬼の疑惑を掛けられることになるだろう。

 聡明な頭中将には、世人の思惑などお見通しだった。

 そしてそれ以上に、今度こそ、己を偽りの罪状で貶めようと企む不届き者を、必ずや暴いてくれようと意気込んだのである。


 河原院を舞台にした一連の事件について、三例目となる今回から急に薔薇の花が現場に残され始めたのは不可解だが、少なくとも犯人は宴の松原事件と同一人物である可能性が高まった。であるならば、今回も現場に残された手足は、別な場所で殺されたか、遺体から切り取られたものに違いない。

「お前はその出所を探してくるのだ」

「…………」

 言い放った頭中将に対し、紫苑はあからさまに不安そうな顔をした。死人や、場合によっては殺人も絡んでいるかもしれない事件の捜査に駆り出され、ほんの少し前まではただの庶民でしかなかった自分には、とてもではないが身に余るとでも言いたげな表情だ。

 紫苑が事件捜査に関して素人であることは、頭中将もわかっている。しかし、幼く見られがちで「少年」と括られることの多い彼も、時代的には立派な成人男性だ。頭中将としては、相応の能力があり、信頼のおける者に任せたつもりである。

「まあ、そう言って貰えるのはありがたいですけど……」

 ごにょごにょと言い澱む紫苑に、頭中将は畳み掛ける。

「不満か?」

「――ッ、やります、やりますよ!」

 半ば捨て鉢気味の答えに、頭中将は思わず苦笑を漏らした。紫苑の中で、主への報恩と、宴の松原事件の罪滅ぼしの二つが、力ずくで恐怖を抑え込む。その様子が、手に取るように理解できたからだ。

 「頼むぞ」と念を押すと、まだ少しだけ恨めしそうな視線が返される。「薔薇の君は?」と小首を傾げる仕草は、まあ可愛らしいと言えなくもないが、頭中将は呆れたように息をついた。

「私が動く必要があるか? 自らの足で調べる必要などない、お前達の持ち帰った情報を精査して解答を導き出すのが、私の役目だ」

 至極まっとうな論を呈したつもりの頭中将に対し、今度は紫苑が呆れたように肩を落とす。「貴族って……」と濁された先に続くのが称賛でないことだけは伝わってきたが、賢明な紫苑はギリギリのところで言葉を飲み込んだ。

「その人達が、全員本当に信用できるかどうか、わからないじゃないですか」

「我が随身ずいしんが、私の期待を裏切ることなど……」

 あどけない家礼けらいの懸念を一笑に付そうとした頭中将は、そこでふと動きを止めた。

 一般的に随身と言えば、近衛府このえふから貴人の警護のために派遣される官人を指す。が、頭中将が側に置いているのは、藤原家が独自に雇い入れた散所さんじょ随身であるため、忠誠心においては比べるべくもない。これは以前から変わらないし、元より人を見る目にも自信があるため、紫苑の指摘するような心配はないのだが……。

 その時、頭中将の脳裏をよぎったのは、宴の松原事件の折、紫苑と宮城前で揉めていた男――真犯人の使いの役を務めていた者ではないかと、紫苑に糾弾された男の姿だった。そもそも家礼という立場にある時点で、おいそれと主人の意向に逆らえるものではないだろう。主人の出世こそ家臣の栄達、裏切るなど端から考えておらず、故に主の側が何を企んだとしても、手足のように動かせる。主の繁栄が己の利に繋がると考える人間であれば、進んで協力することもあるのではないか。

 ――やはり、あの男の主人が黒幕である可能性は高い。どう考えても、あの家礼風の男を探し出すのが一番手っ取り早いはずなのだ。しかし、今もってあれ以来、一年以上も姿を見掛けていない。屋敷の奥深くで閑職に徹されてしまえば、他家の者が見付けるのは至難の業だ。

「薔薇の君?」

 紫苑の呼ぶ声に、頭中将は我に返った。気遣わしげな大きな瞳に見上げられ、咄嗟に「気にするな」と片手を振る。

 心配そうに振り返る紫苑を見送ってから、頭中将は明日からの行動計画を練り始めた。


                  ●


 翌日、定例通りの執務を早めに切り上げ、頭中将は中務省なかつかさしょうへ向かった。

 建礼門けんれいもん辺りで目当ての人物を見付け、一人であることを幸いとばかりに声を掛ける。

恒泉つねみ殿!」

 呼ばれた男は、驚いたように立ち止まった。親しくもない人物に名指しで呼び止められたのだから当然かもしれないが、それにしてはやや大仰に過ぎるようにも思われる。

 動揺は瞬時に掻き消え、中務の少輔しょうゆう・橘恒泉は、隙のない所作で礼を取った。

「これは……薔薇の君」

「――頭中将、と」

 やんわりとした訂正には、「失礼」と軽やかな笑みが返される。細面の輪郭に切れ長の瞳は、一見すると情の薄そうな印象を与えるが、一般的には美しいと形容されるに相応しい容貌と言えるだろう。

「この度は、また面倒なことになりそうなご様子……心中お察し致しますよ」

 恒泉は僅かに眉根を寄せて、同情するように小さく頷いた。言い分から察するに、やはり河原院の最新情報は彼の耳にも届いているのだろう。「それなのだが」と、頭中将はしゃくを手の中で小さく打ち鳴らした。

「私としても、宴の松原の時のような事態は避けたいのでね。先日は、皆の前でつい自説を講じるような真似をしてしまったが、正直河原院の件について、私はさほど詳しくはない。それ故、改めて恒泉殿とお抱え陰陽師殿のご賢察を拝聴できればと思ったのだが」

 自身の不明を詫びつつの頭中将の弁に、恒泉は「ほう」と興味深げに唸った。口元には満更でもなさげな笑みが浮かんでいる。

 「私が動く必要はない」との昨夜の主張を自ら覆す気になったのは、家人達の集めてきた情報を、より正確に精査する必要性に気付いたからだ。頭中将は河原院の事件を、最初から注視していた訳ではない。丑三つ時の百鬼夜行が信じられていた時代にあって、魑魅魍魎との接触譚など、そこら中に転がっている。今回もそのような怪談話の一つと捉えていたところに投じられたのが、一輪の薔薇の花だ。これによって、河原院は宴の松原事件と完全に結び付いた――頭中将への悪意という点において。しかし、最初から犯人と疑われていた時とは違い、頭中将には河原院について、噂話程度の知識しかない。事件全体に詳しげな中務の少輔の話を聞いてみようと思い立ったのはそのためだ。子飼いの陰陽師とやらの存在にも興味をそそられる。紫苑に呆れられたからという訳では決してない。

 恒泉は事件の概要について、過不足なく理路整然と、判明している事実を説明してみせた。結果的に、頭中将がこれまでに知り得た情報にさほどの欠落はなかったようだが、それが理解できたのも、恒泉の話振りによるところが大きい。

 そもそも、恒泉が当初から事件に注目していたのは、父親が播磨はりまの国司をしていた頃に知己ちきを得、その後京で再会したのを幸いと雇い入れた、陰陽師の発言が発端なのだという。重岡しげおか何某なにがしというその人物は、事件の第一報を耳にし、意見を求めた家人に対して答えたのだそうだ――「陰陽家として気になる点もあれば、それだけに不可解な点もある」と。図らずも、先日頭中将が口にした「魑魅魍魎の類いにしては、人の作為が窺われる」点を、その陰陽師も指摘していたということになる。

「続いて起こった事件や、重岡の見解を踏まえて――私個人では、いずれかの陰陽師が、鬼の仕業と見せ掛けた自作自演を行っているのではないかと推測しております」

「なるほどな……」

 恒泉の推論を受けて、頭中将は考え込むように腕を組んだ。あの時口を挟まなければ、恒泉は自分と同じように、人の手による犯行だと結論付けようとしていたらしい。確かに、陰陽師であれば、常人よりは鬼の真似事にも信憑性は出よう。だが、一体何のために? 鬼の仕業と見せ掛けることに、意味はあるのだろうか。

 頭中将の疑問に対し、橘恒泉は「さぁ」と曖昧にかぶりを振る。

「しかし、名声を得る手段としては、申し分ないのでは?」

 馬鹿な、と一笑に付しかけて、頭中将ははたと瞳を瞬かせた。断定は避けながらも、恒泉は自身の論によほどの自信がある様子だ。播磨出身の陰陽師を抱えていることのほかにも、恒泉の属する中務省の職掌しょくしょうには、陰陽寮も属している。そしてその陰陽師達の長たる陰陽頭おんみょうのかみであっても、官位は従五位下。決して高位とは言い難い。もしかすると、中務の少輔は、彼らの悲哀や憤懣ふんまんを、日頃から感じざるを得ない立場にあるのかもしれない。

「――では、今回に限り、急に現場に薔薇の花が残されていたことについては、いかがお考えか?」

 恒泉が自信なさげに視線を泳がせたのは、頭中将が最後にと、最も知りたかったことを聞いてみた時だけだった。それまでの、いかにも利発そうな態度はなりを潜め、申し訳なさげに瞳を伏せる。

「そちらに関してはわかりかねます。やはり以前のように、頭中将殿を貶めんとする者の企みか……」

 言葉を濁したのは、誰かの恨みを買っている事実を、頭中将に直接突き付けることを回避するための配慮だったのだろうか。

 教授の礼を述べた頭中将に対し、恒泉もまた丁寧な辞去の挨拶を寄越す。

 踵を返した恒泉の束帯そくたいから、ふわりと馨しい香りが漂った。それが麝香じゃこうであることを認知した頭中将はしかし、黙って細い背を見送る。

 橘家の家格であれば、麝香の入手など造作もないであろうことは、上流階級に生まれ付いた者であれば周知の事実のようなものだったからだ。


                  ●


 現状の宮中において、頭中将以上に薔薇の花との関連を思わせる人物は居まい。

 となれば、殺人――或いは誘拐及び死体遺棄の現場に薔薇の花を残していくという行為は、頭中将に嫌疑を向けさせるための工作と捉えるのが自然だろう。しかも、この時機に至って急に、だ。第一、第二の事件では、このような小細工は確認されていない。となれば、犯人の側に心境または状況の変化があったとみるのが妥当だろうか。とはいえ、工作があまりに稚拙で、頭中将を恨む別な誰かが河原院事件に便乗したとの線も考えられなくはない。

 いずれにせよ、頭中将が誰かに、殺人犯か鬼の濡れ衣によって破滅せよとの悪意を向けられていることだけは確かだ。原因はもしかしたら、頭中将の側の落ち度の可能性もなくはない。しかし、そもそも上流階級に生まれ落ち、余程のことがない限りは出世を約束された身分である時点で、他人の恨みは買いやすかろう。その上頭中将は、諸事に秀でた能力の高さと、美しい容貌を兼ね備えている。男は才能、女は色事と、他者の嫉妬に晒される材料は揃っているのだ。

 こうなると、宴の松原事件の折も散々悩まされたのと同様に、犯人の目星を付けることさえ難しい。

 少しでも有益な情報はないかと悩んだ頭中将が向かったのは、やはり、この世で唯一己に比肩ひけんすると認めた、友人の屋敷だった。

「私を特別に恨んでいそうな人物に、心当たりはないだろうか」

 単刀直入に聞いた頭中将に対し、源氏の中将は整った眉を寄せて、微苦笑を漏らした。本来、己を疎む人物についての話題など、好ましいものではない。それを真正面から尋ねてきた頭中将の潔さが、却って壷に嵌ったと見える。脇息きょうそくに凭れる様子は、打ち解けた間柄であるからこそだが、今日も目の覚めるような美しさだ。

 小さく肩を揺らした後、源氏の中将はふと遠くを見るような眼つきになった。「そうだねぇ」と呟きながら、考え込むように笏で口元を覆う。

 自分がこうなのだから、彼もまた、己の意図せぬところで恨みを買う人生をいとうところもあるのだろう――圧倒的な共感を覚えながら、頭中将は友人の言を待った。

「仰る通り、貴方も私も出世や色事で男女の恨みを買うことは多かろう――しかし、強いて言うなら、だ。今でも貴方の奥方を想う者があれば、貴方への恨みはさぞや年季が入ったものでしょうね」

「……四の君を?」

 これまで考えてもみなかった切り口に、頭中将は素直に驚いた。

 確かに、正妻の四の君の父は現職の右大臣であり、政治的な後ろ盾としては申し分ない。そして彼女自身もまた、気高く美しい姫として名高かった。妻にと望む者も少なくはなかっただろう。結果結び付いたのが、敵対勢力でもある左大臣の嫡男・頭中将だったのだから、思わぬ伏兵に漁夫の利を浚われた者達の嘆きと怒りは、推して知るべしといったところか。

「それは、いったい?」

 元々夫婦仲があまり良くなかったせいだろうか。婚姻からこちら、これほど「有り得そうなこと」をまったく想像もしなかった自分に少々動揺しながら、頭中将はより具体的な情報を求めた。

 しかし、源氏の中将は困ったように頬杖を突く。

「可能性としての話ですからねぇ……そもそも私は今回の事件に詳しくはないし、ここで根拠もなく名を挙げて、事件とは無関係であったら、それこそ冤罪に繋がりかねない」

 この口振りでは、何人か心当たりがあるのかもしれない。とはいえ、確かに他人の色恋など、噂以外に知り様がないというのも事実だ。「独身時代の四の君に言い寄っていた」という過去があるだけで、今も頭中将を恨んでいる容疑者にされてしまっては、当事者も堪ったものではないだろうし、実際に冤罪に悩まされている頭中将が、やっていいことではない。自身に偏見を植え付けるのは、辞めた方が無難だろうか。

 それ以上の追究を諦めた頭中将に対し、源氏の中将は「貴方のそういったところが好ましいと思いますよ」と最上級の称賛をくれたのだった。

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