第11話 さざなみの玉椿3

 それからまた幾日か経った日の午後。

 頭中将は源氏の中将宅をおとなった。その日は折悪しく、大内裏だいだいりから自宅への方角が天一神てんいちじん遊行ゆぎょうと重なっており、またしても方違かたたがえを余儀なくされたためである。

 これを良い機会と、頭中将は源氏の中将に嫁いだ姉・あおいのご機嫌伺いを願い出た。同腹の葵とは幼少期から比較的懇意にしており、両親への土産話として、その近況を伝えられればと考えたのだ。

 姉はいつも通り、快く迎えてくれた。普段からあまり感情を面に表す女性ではないが、紅葉賀もみじのがの大役について、「貴方なら立派に務め上げられると確信しております」との激励を受け、身が引き締まる思いがする。

 しかし、話が夫である源氏の中将に及んだ際、葵は御簾みす越しにも感じ取れるほど、はっきりと言葉を詰まらせた。我が家から伴った女房達も、気遣わしげな表情を浮かべている。その後も言動の端々から、未だ源氏の中将と心通わせられずにいるらしいことが容易に理解できてしまい、頭中将は芽生えた失意を押し殺しながら、やや強引に別な話題を振るよりほかなかった。

 ――時間が解決してくれればよいが。

 姉の元を辞し、主人の待つ寝殿へ案内されながら、頭中将は考え込むように軽く眉根を寄せた。

 頭中将自身、正妻の四の君との関係が、何とはなしうまく行き始めたように思われるのは、ここ一年くらいのことだ。四の君は右大臣の娘、葵は左大臣の娘。共に入内じゅだいを念頭に養育されてきた姫君であり、本人達もその気でいたところを、上流とはいえ一貴族に嫁がされた。人生の目標(或いは夢)を見失い、気持ちを切り替えるのにどれだけ難儀したことだろうか。更に葵の場合は、夫よりも四つばかり年長であることも、影響しているのかもしれない……。

「――姉君とはどんな話を?」

 屋敷の主はというと、こちらもまたいつも通り、楽しげ且つどこか気だるげな様子で、頭中将を私室へ招き入れた。脇息きょうそくに凭れ掛かる姿が、息を呑むほどに美しい。だが、つい今しがた、姉の煩悶を垣間見てきたばかりの頭中将にとっては、まるで他人事のように聞こえてしまったのも仕方のないことだろう。

「君の、奥方だ」

 強めに返してしまってから、頭中将は珍しく、はっきりと後悔した。源氏の中将の寂しげな微笑みに、夫婦の軋轢あつれきの原因の一つには、葵の頑なな性格もあるのではないかと思い至ったからだ。こればかりは持って生まれた性質であって、どちらか一方を責める訳にもいかない。頭中将にとっては両人とも大切な存在であるだけに、悩ましいところだ。

 己の配慮の足りなさを責めながら頭中将は、「すまない」と小さく詫びた。そして、場の空気を改めんと、「機会があれば尋ねてみようか」程度に考えていた質問を繰り出す。

「……そうだ、先日の噂話の折は、なぜ彼と一緒に居たんだ? 確か、中務なかつかさの……」

橘恒泉たちばなのつねみ殿か」

 急な話題転換に乗ってくれた源氏の中将に感謝しながら、勧められた席に腰を下ろす。促されるまま杯を手に取り、頭中将はそこで初めて、河原院かわらいんの噂話に積極的に参加してきた青年の名を知った。橘氏といえば、神武天皇以降に臣籍降下しんせきこうかした皇別氏族こうべつしぞくの一つであり、由緒正しい家柄だ。律令制における八省の中で、最も重要とされる中務省なかつかさしょうに役職を得ているのも頷ける。

「ああ、そうだ。恒泉殿というのか。日頃君の周りで見掛ける顔触れではなかったので、妙に印象に残っていたんだが」

 もちろん、頭中将が源氏の中将の交友関係すべてを知り得ているはずもない。とはいえ、同年代の中では特に親しいと自他共に認める間柄であるだけに、自分の知らない友人となると、ちょっとした興味も湧こうというもの。

 すると源氏の君は、可笑しそうに肩を竦めてみせた。

「なに、たまたま捕まっただけですよ。よほど河原院の事件について、自説に自信があると見える。適当にいなしていたら、貴方がたが噂話に興じる現場に出くわしたという訳だ」

 中務の少輔しょうゆう――橘恒泉と一緒にいた時よりずいぶん楽しげな様子だが、「河原院」の名を口にした瞬間、ほんの少しだけ美しい顔に翳りが差したのが気に掛かる。しかし、源氏の中将はすぐに昏い表情を拭い去ってしまったので、頭中将も敢えて聞かないこととした。(実際のところ、友人のこの憂いには、頭中将もまったく無関係という訳ではなかったのだが、それはまた別の話だ)

「私達と会うより前から、君に事件の見解を披露していたのか? 特別懇意にしている訳でもない、君に?」

 ええ、と首肯されて、頭中将は思わず苦い笑みを漏らした。子飼いの陰陽師とやらの言を根拠に、控えめながらも自説をぶち上げていた恒泉の姿を思い返す。今になってみれば、あの時の頭中将の発言は、恒泉の話の腰を折っただけでなく、陰陽の術が絡んでいるとか何とかの説そのものを否定する結果に繋がったのではなかったか。声を掛けてきた時とは打って変わって、随分冷めた態度で帰っていったが、よもや頭中将と、それに賛同した面々に腹を立てたという訳でもあるまい。

「――それは、申し訳ないことをした」

 杯を口元に運びながら、頭中将は笑い含みに反省の弁を述べた。もっとも、これを受け取るべき恒泉はこの場におらず、そもそも本気の謝罪でもないから、自然と口調は軽くなる。

 親しい友人同士の感覚を理解してくれている源氏の中将が、大袈裟に怯える風でまぜっかえした。

「貴方は自分の知らない所で、随分と人の恨みを買っているのかもしれないぞ?」

「それはお互い様だろう……笑えん話だ」

 実際に、えんの松原事件で濡れ衣を着せられて難儀した経験を踏まえ、頭中将もまた大仰に頷いて見せる。

 互いにせいぜい気を付けようと笑い合い、友人宅での夜は更けていった。



 明けて、帰路のさなか。

「あっ」

 街路を右折したところで、牛車を先導する紫苑しおんが短く声を上げた。何事かと御簾越しに前方を注視していると、やがて朝靄あさもやの中に、何事か言い争う者達が浮かび上がってくる。いかにも身を持ち崩した風の男が、籠を抱えた妙齢の女性と年若い少女、それぞれの腕を掴み、しつこく絡んでいるようだ。物見ものみを開けて確認するまでもなく、ぶつかっておいて侘びもなしか、悪いと思っているのなら相手をしろと、下卑た声が耳に飛び込んでくる。

 すぐにも飛び出して行きたそうな様子で、こちらをチラチラと振り返る紫苑を制し、頭中将は傍らの随身ずいしんを呼んだ。は、と応えた随身は、指示を与えるまでもなく駆け出して、男を止めに入る。闖入者ちんにゅうしゃの体格や身のこなしに一瞬怯んだかに見えた男は、それでも何事か言い返して凄んで見せた。しかし、遅れて目の前に現れた牛車の一団に、勝機のないことはさすがに理解できたらしい。慌てた様子で路地の向こうへ消えていった。

「ありがとうございます。何とお礼を申し上げたらよいか」

「――!」

 随身と、その主人である頭中将の乗った牛車の屋形やかたへ向けて、女性と少女が何度も頭を下げる。その顔――特に女性の側の容貌に見覚えのあった頭中将は思わず、手ずから御簾を掻き上げた。

「そなたは、田楽でんがく一座の……」

 先日、舞いの師の元から戻る折に往来で宣伝興業を打っていた、田楽一座の舞女まいひめに違いない。あの時は、遠目に舞う姿を力強く美しいと感じただけだったが、こうして近くで見てみると、清楚とも華やかとも取れる、実に魅力的な美貌をしている。

「……椿つばき、と申します」

 頭中将の指摘を否定することなく、舞女は白い頬をうっすらと朱に染めて、そう名乗った。少女の方はというと、牛車を見上げ、ぽかんと口を開けたまま惚けてしまっている。世にも稀なる美しい貴公子の姿は、彼女達によほどの衝撃を与えたものらしい。頭中将にとっては、まあ、見慣れた反応ではある。

 世慣れている分、貴人の顔を凝視する無礼にいち早く気付いた椿は、慌てたように謝罪を口にした。そして改めて、暴漢から救われた礼を述べる。

「わたくし一人なら何とでもなりましょうが、この子もおりますので、どうしたものかと難儀しておりました」

 随分と勇ましいことだが、聞けば、二人は薬草摘みに行く途中なのだという。一座で使用している打ち身薬は、朝露に濡れている状態で摘まねば効果が薄れるらしく、それでこんな早朝から大きな籠を抱えているのだそうだ。

 ふと思い立って、頭中将はしゃくを手の中で一つ鳴らした。

「礼と申すならば――そなたの舞いを所望したい」

 大したことをしたわけではないが、恩義を感じているというなら、もう一度、今度は間近で、あの印象的な舞いを鑑賞してみたい。時間に制約があるというなら、せめて一節だけでも。そう願ったのはきっと、己の舞いについて、迷いがあるせいだ。

 思いも掛けない提案だったのか、椿が驚いた様子で「まあ」と小さく声を上げる。両目を大きく瞬くのが、何とも婀娜あだっぽい。

「いつぞや、市中で舞う姿を見掛けた。なかなかの腕前と見える」

 頭中将がまったくの戯れで言っているのではないことが伝わったのか、椿は「それでしたら」と笑顔で頷いた。その意を受けた少女が、懐から笛を取り出す。随身が心得た様子で、二人を通りの端へと誘導した。辺りにはいつの間にか薄日が差し始めており、そろそろ付近の住民も活動を始める頃合いだろう。短時間とはいえ往来を塞いでおく訳にもいかない。一連の流れを見ていた紫苑もまた、ハッとした様子で牛の手綱を引いた。この辺りの差配はまだまだ随身の方が上、ということだろうが、まあ、それはおいおい身に着けていけば良いことだ。

 少女の笛の音に合わせて、椿は静かに舞い始めた。時に優美に、時に力強く。笠や等の小道具はなくとも、椿の体捌きは、見る者すべてを己の世界に引き込むかのようだ。美しさの中にも、凛とした気迫を感じさせる。完成された、無二の舞踊と言っていい。

 やがて、余韻を残して笛の音が途切れ、椿が動きを止めた瞬間、周囲から小さくはない喝采が起こった。いつの間にか、早朝の往来に行き合わせた人々が足を止め、即席の舞台が出来上がっていたらしい。普段は冷静沈着な頭中将の供人ともびと達も、皆一様に感心した様子で手を叩いている。紫苑などは、飛び跳ねんばかりに全身で感動を表している始末だ。

「優美さの中にも芯の通った強さを感じるのは――そなたの心持ちのゆえか」

 御簾越しに礼を取った椿に、頭中将は思わず感嘆の声を漏らした。誇らしげに微笑む椿は、舞いだけでなく、やはり姿かたちも美しい。

薔薇そうびの君~~!」

 両者の間に流れる甘い空気を破るかのように、紫苑が小声で窘めてきた。今の今まで無邪気に椿を賛美していたというのに、こやつ、四の君かその女房辺りにでも手懐けられているのではあるまいな、と、頭中将が屋形の中で舌打ちするのと同時に、椿もまたハッとしたように両目を見開く。

「薔薇の……」

 下々に至るまで、頭中将・藤原喬顕ふじわらのたかあきらの美名は轟いているものか。それとも、遊芸人ゆげいにんのゆえに接待等で貴人に接する機会もあるのか。どちらにしても、椿は「薔薇の君」という、頭中将にとっては不名誉な通称を知っているらしい。

 訂正しておくべきかと頭中将が逡巡する間に、笛の少女が「椿姉さん」と、おずおずと口を挟んできた。「そろそろ朝露が乾いちゃうんじゃないの?」との指摘に、椿は我に返った様子で籠を抱え上げる。

 もう一度丁寧に礼を述べてから、二人は聴衆に手を振りつつ去っていった。藪に分け入りながら、「それは歯痛に効くよ」などと教えてやる椿の声が、頭中将の耳朶ではなく心を打つ。

 紫苑の「常陸宮ひたちのみやの姫を源氏の中将に取られたからって、自棄になってませんか?」という無礼な発言には、しっかりと鉄拳で報いてやった。

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