第10話 さざなみの玉椿2

 数日後。

 その日の執務を終えて、自邸へ戻るべく宮城門へ向かって歩いていた頭中将は、立ち話に興じるらしい貴族四人と行き合った。誰一人、近付く頭中将に気付きそうな気配もなく、熱心な様子で顔を突き合わせている。

 声を掛けたのは、挨拶のようなものだった。

「皆様お揃いでどうなされました」

 年齢も官職もバラバラな顔が、一斉にこちらへ向けられる。頭中将の姿を確認するやいなや、「おお」「これは、頭中将殿」「ご存知か」「実は……」と、息もぴったりに噂話の渦中へと引き摺り込まれた。

 どうやら彼らの話題は、先日河原院かわらいんで起こった怪事件についてらしい。


 元々、この河原院、さる高貴な出自の御方の屋敷であったものだが、主人の逝去以降は、多くの怪奇譚で彩られている。この世に何の恨みがあったか、或いはそういったものを引き寄せる磁場でもあるのか。『今昔物語集』を始めとした種々の文献における幽霊話も、枚挙にいとまがない。

 近辺の者から畏怖の念を以て恐々と見守られる荒れ果てたこの邸宅に、ある時、旅の夫婦が一夜の宿を借りんと分け入った。夫が馬を繋いでいると、突然屋敷の中から大きな手が伸びて来て、嫌がる妻を屋内へと引き摺り込む。慌てた夫は後を追おうとするが、扉は人一人を飲み込んだことが嘘のように、固く閉ざされて開かない。これを何とか打ち壊して、屋内に押し入った夫が見たものは、憐れにも血を吸い尽くされ、鴨居に吊るされた、無残な妻の姿だった――。


 これが、ひと月ほど前のことだっただろうか。先日の舞いの稽古の後、師の口から発せられた「市中に起こる」「奇怪な事件」というのは、まさにこの顛末を指している。人心を不安に陥れる奇妙な事件の影を、優れた舞いの力で振り払うことも出来るのではないかとの、激励の言葉と頭中将は受け止めたのだが。

「――それが、つい昨夜、またしてもあのお屋敷で、女人が行方知れずになったようで」

 皆のまだ知らぬ情報を披露できることが余程嬉しいのか、得意げな様子で語るのは、修理大夫しゅりのだいぶだ。「屋敷の者が目撃者の家族から直接聞いた」という話の出所はいまいち信憑性に欠ける気がしないでもないが、わざわざ指摘して反感を買うこともあるまい。思う所もあった頭中将は、おとなしく噂話の輪に留まることにした。


 第二の事件の被害者は、いわゆる遊女であったそうだ。古の巫女が神性を失って、放浪、遊行の生活に入り、これに春をひさぐ行為の加わったものを遊行女婦ゆうこうじょふといったが、これを縮めて遊女と呼ぶようになったのは、平安以降のことである。あそびめ或いはうかれめとも言うが、被害者もまた例にもれず、流浪の生活に身を置く一人であったらしい。

 知人の伝手を辿ってやってきたみやこの片隅の小さな祭礼で、女はある男を見初めた。客を取ったという訳ではなく、男の家族に隠れて関係を持とうとしたというから、余程好みの容貌だったのだろう。男の方も最初こそ乗り気だったようだが、女が手近な密会場所として河原院に目を付けたことで、にわかに及び腰になった。が、地元の人間であれば当然の反応も、世の中の酸いも甘いも嚙み分けてきた女にとっては、よくある噂話としか思われず、男の怯懦きょうだわらって相手にしない。

 二人はそのままズルズルと敷地内に入り込んでしまい――突如開いた扉から現れた太い腕に、女は邸内に引き摺り込まれた。悲鳴はすぐに掻き消え、肝を潰した男は京職きょうしき(市中全般の司法、行政、警察行為を担う機関)へ駆け込み、事の次第を訴える。数に勇気を得て男達が踏み込んだ邸内には、女の物と思しき干からびた手足が、バラバラとあちこちに散らばっていたという――。


「…………」

 修理大夫の「男の家族から下男が直接聞いてきた」という間接的な話に、頭中将はしゃくを口元に当てて考え込んだ。他の者達は「また鬼の仕業であろうか」「慶賀の式典も近いというのに、恐ろしいことですなぁ」などと、凡庸な感想を述べている。確かに河原院といえば、奇怪な話題に事欠かない場所ではあるが、しかし、後半はどこかで聞いたような話だ。それに、先月の事件と昨夜の事件、似ているようで、微妙に違っている点も気になる……。

「――恐れながら、河原院の騒動についてのお話でしょうか?」

 頭中将が口を開きかけたところへ、涼しげな声が割って入った。振り向くと、同世代くらいの青年貴族が、妙に自信ありげな面持ちで近付いてくる。一見冷ややかにも見える容貌には見覚えがあるようなないような、と首を傾げたところで、中の一人が「中務なかつかさ少輔しょうゆう殿か」と呼び掛けた。それで青年の官職は知れたが、その背後に見知った美しい顔を見付けて、頭中将の意識はそちらへ引き摺られる。面白くもなさそうに佇んでいるのは、源氏の中将だ。

「新たな動きでもございましたか」

 二人の距離から推し量るに、中務の少輔は源氏の中将と連れ立っていたのに違いない。しかし、よほど河原院の事件に興味があるのか、頭中将達の一団へ躊躇なく溶け込んで見せた。少し離れた所で呆れたように息を吐く絶世の美男子の存在など、忘れてしまったかのようだ。

「――『鬼のような』というのが、肝かもしれませんね」

 さすがに三度目ともなると掻い摘んだ表現にはなっていたものの、修理大夫から一通りの説明を聞いた中務の少輔は、考え込むように宙の一点を見据える。

「父が播磨の国司をしておりました関係で、我が家にも陰陽師を抱えておりますが……陰陽の術の気配がする、などと申しておりますよ」

 中務の少輔の発言に、周囲からは「おお」「では陰陽師が犯人と?」などと、無責任な反応が起こる。こういった確証もない話を事実かのように言いふらすところから冤罪は生まれるのだ、と、身に覚えがないではない頭中将は失望を飲み込んだ。皆の関心が少輔子飼いの陰陽師とやらの説に集中する中、尋ねそびれたままになっていた疑問を、誰に言うともなく口にする。

「――血を吸い尽くされた遺体と言うが、それは真実、その夫婦の妻であったのだろうか?」

「は?」

 全方向から不思議そうな視線が集中する。しかし頭中将にしてみれば、事件の一報を耳にした時から、何となく気になっていたことだ。

「……なぜ、そのように?」

 いつの間にやら一団の近くまでやって来ていた源氏の中将が、真意の読めない表情を浮かべて首を傾げる。気心の知れた友人に向かって「いや」と薄く笑って見せてから、頭中将は続けた。

「以前私が濡れ衣を着せられた事件では、別の場所で既に死んでいたと思われる者の手足が切り取られ、さもその場で鬼にちぎり取られたかのような工作がなされていた。今回の河原院の最初の件も、血を抜かれ干からびた遺体が残るのみであれば、それがその男の妻であると、暗夜の中で本当に判別できたかどうか、疑問でな」

 えんの松原事件と違って、今回はバラバラの手足のみでなく、干からびた女性の遺体が丸ごと発見されている。そこだけ聞けばいかにも恐ろしげな状況だが、夜の闇の中、僅かな光源で、干からびた遺体を我が妻の物と、夫はその場で断定できたのだろうか。陽が昇ってから改めて検分したとしても、その時までに妻が戻って来なければ、夫は悲哀の中、さしたる確認も出来ぬまま、憐れな木乃伊ミイラを妻の変わり果てた姿と断定してしまう可能性もなくはないだろう。――事実、宴の松原事件では、当初被害者と思われていた者が、実際は残された手足とは無関係であり、別な場所で無事に生きていたという例がある。

 とはいえ、この時点で二つの事件を結び付けるのは、さすがに早急に過ぎるというものだ。

 しかし、昨夜起こったという第二の事件にははっきりと、宴の松原事件との類似性が感じられる。

「バラバラの手足が残されていたとなると、ほとんど私が陥れられた時と同じような有り様です。あちらの真犯人も見付かっておりませんし、何とも釈然としませんね」

 己より歳も位も上の貴族も居ることとて、頭中将は周囲を見回し、敬語で話を締め括った。かつて鬼の仕業とも囁かれた事件の嫌疑を掛けられ、自らそれを晴らして見せた頭中将の見解に、噂話の一団は「なるほど!」「言われてみれば……」「ではやはり、魑魅魍魎の類いではなさそうだのう」などと頷き合っている。

 ひと段落がついたところで、真っ先に中務の少輔が「では、これで」と頭を下げた。最前の興味津々といった気色はなりを潜め、冷めた表情でくるりと踵を返し、あっさりと立ち去っていく。

 眼前を通り過ぎる瞬間、麝香じゃこうの匂いがほのかに鼻先を掠めた。

 掴みどころのない男だ、というのが、その時頭中将が中務の少輔という人物に対して抱いた感慨である。

 そして、始終つまらなさそうにしていた源氏の中将はというと、少輔とは逆に、妙に興味深げな顔付きをして、去りゆく背中を見詰めていた。


                  ●


 中天に懸かる月の光が、視界いっぱいに広がる庭園を淡く照らしている。

 初秋の風が湖面を撫で、次々と描き出される波紋の、何と美しいことか。

 杯をゆっくりと傾けて、頭中将は満足げに喉を鳴らした。こうして我が家の釣殿つりどのに座し、風雅を感じていれば、日々の雑務にささくれだった心も、いくらか慰められるような気がするから不思議なものだ。

「……その後、母君と妹の加減はどうだ」

 傍らに控えた紫苑しおんに声を掛けると、嬉しそうな笑顔が返される。「お陰様で」と言葉少なに応える様子からは、主への掛け値ない信頼と感謝が窺えた。

 下働きの家族の様子が気になるなら、家司けいしにでも尋ねればいい。そもそも頭中将の支援のお陰で食うには困らず、医者に掛かる余裕もあるため、病弱な母、妹の足の怪我も、予後は万全だ。頭中将とて、それは承知のはず。直接召し抱えたとはいえ、身分の差を考えれば、紫苑はこのような場に上がれる立場ではない。それをわざわざ、理由を作ってまで話し相手として召し出すからには、紫苑自身の様子を気に掛けている以外の理由は見付からなかった。

 頭中将の人柄に改めて感じ入った様子の紫苑は、律儀にも瓶子へいしを抱えたまま待機している。単純に好みの問題から、酒の相手を務められない代わりにせめて、との心掛けなのだろう。何とも初々しい忠誠ぶりだ。物慣れないが故の配慮を見ていると、紫苑を寛ぎのひと時の話し相手として選んだこと自体、無意識に癒やしを求めていたためではないかと思えてくる。

 ――やはり、舞いについての迷いは拭えぬか。

 空の杯を差し出しながら、頭中将はうっすらとした自嘲に唇の端を歪めた。得体の知れぬ当惑は晴れる気配もなく、ただ頭中将の中にわだかまっている。

「……」

 阿吽の呼吸で杯を満たした紫苑は、主の様子に表情を曇らせた。頭中将の女性関係に苦言を呈しながらも、この聡い少年は、彼に思い悩む様子があることにも気付いていたらしい。

 しかし、頭中将がこれを察して恥じ入るよりも先に、紫苑ははたと動きを止めた。何度かスンスンと鼻を鳴らした後、きょとんとした表情で小首を傾げてみせる。

「――いつもの薔薇そうびの君とは、違う香りですね?」

「よくわかったな。貰い物だ」

 紫苑の感覚の鋭敏さに感心することで、頭中将の憂いはひとまず念頭から消えた。確かに、今直衣のうしに焚き染められている香は、普段頭中将が愛用しているものではない。先日、舅である右大臣から贈られた麝香だ。大方、何度も眼前でそよぐ袂からの香りに、嗅覚を刺激されたのだろう。貴人に侍る者として、よく気が回るというのは、何にも代えがたい才能だ。特別気に入っているというだけでなく、半分は公家の血が流れているという彼ら双子を何らかの形で取り立ててやりたいと考えている頭中将としては、喜ばしい情報である。

 主の称賛に、しかし紫苑は眉を顰めて、宙を仰いだ。「この匂い、どこかで……」と考え込む様子で視線を彷徨わせる。まさか、嗅いだことがあるとでも言うのだろうか。香の文化は庶民にまで浸透していないし、何より高価なものでもあるため、市井育ちの紫苑が知っているとは考えにくいが、と、頭中将は家礼けらいの思索を、杯を傾けつつ見守る。

「そうだ!」

 紫苑がハッと大きな瞳を見開くまで、そう時間は掛からなかった。大事そうに抱えていた瓶子を横に置いたのは、うっかり倒してしまわないようにとの心配りだろう。慌てた様子で、頭中将に向き直る。

「宴の松原で会った人が、同じ匂いをさせてました!」

「!」

 改まっての報告に、頭中将は杯を唇に当てたまま、ぴたりと動きを止めた。紫苑は育ち以上に賢い。彼の観察眼に信頼がおけることは、頭中将自身が誰よりよく理解している。宴の松原事件の供述の際、紫苑は確かに、黒幕らしき貴族の直衣や、自分が着せられた女房装束から良い香りがしたと、しきりに語っていた。それが同じものであったと、今はっきりと認識できたという訳だ。――が、しかし。

「……麝香か……」

 高坏たかつきに杯を戻しながら、頭中将は小さく呟いた。

 つい最近、我が家以外で麝香の匂いを嗅いだような気はする。とはいえ、富裕な貴族であれば、麝香の入手は、さほど困難ではない。暗愚ではないはずの己の記憶に、強く刻み付けられていないのも、そのせいだろう。頭中将としても、自分を陥れることで利を得られる人物であれば、それなりの位の者でなければ話が合わないと考えている。残念ながら、麝香の香を以て真犯人に辿り着く一助とはなり得まい。

「なーんだ」

 心底ガッカリしたと言わんばかりに、紫苑は肩を落とした。素直な反応が微笑ましくて、頭中将は思わず宥めるような言葉を掛ける。

「お前の記憶力や観察眼は素晴らしいものだ。これからも気付いたことがあれば、何でも言うといい」

 主の激励に、紫苑はぴょこんと姿勢を正した。発言の内容を噛み締めるように何度か瞬きを繰り返した後、「はい!」と大きく頷く。

 可愛らしい挙動の応酬に、今度こそ頭中将は肩を揺らして笑った。

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