第9話 さざなみの玉椿1
粗末な小屋の一室に、月明りが降り注いでいる。
心地良い虚脱感に身を任せようとしていた女の耳元で、男が囁いた。
『私を救えるのはお前しかいない』
身じろぐと、絹の
何も知らない小娘の頃は、自分の人生には無縁の明るい色、美しい世界を見せてくれる人なのだと信じていたけれど、今は男の狭量さが、ただ哀しい。
『お前の力が必要だ』
女の諦念も知らず、男は甘言を、まるで睦言かのように繰り返す。
男が可愛いのは己だけなのだと、とうに女は知っていた。だから、自分が思うのと同じだけの評価をくれない世間を捻くれた目で見ているし、いつも誰かを責めてばかりいる。
――わたしのことを何とも思っていないから、自分のために、わたしの手を汚せと平気で言えるんだわ。
男が思うよりも、女はずっと聡明だった。勉学では身に着けられない部類の教養を、人生の中で自ら掴み取る能力に長けている。が、庶民を一括りに見下す男には、理解できるはずもない。
『事が成就すれば、いずれお前を正式に妻に迎えることも出来よう』
最上級の交換条件に、女は溜め息をつきそうになるのを何とか堪えた。
妻なんて絶対に嘘。この人が愛しているのはわたしの見た目だけ。庶民を
しかし何より女を傷付けたのは、決して短くはない年月を共にしながら、男が自分をまったく理解していないことだった。妻になりたいなどと、大それた夢は抱いていない。女が男の自由にされていたのは、結局のところ、欠陥ごとこの男を愛していたからだ。
――わたしがあなたを理解できているのも、愛しているからこそ、なのに。
わかっていたはずの擦れ違いを改めて眼前に突き付けられて、女の艶やかな美貌に影が差した。そしてそれに気付けるような男なら、女の苦悩もこれほど深くはなかっただろう。
『――良いな?』
拒絶をまったく想定していない様子で、男は言い聞かせるように首を傾げた。
敏い頭で、女は考える。
こうして男の愛玩動物でいられるのも、あと数年。歳を取って容色が衰えれば、男は容赦なく自分を棄てる。妻になりたいから傍にいるのではない。引き止めたいから協力するのでもない。
――愛しているからこそ、ダメな人だとわかっていても、手を貸さずにいられないだけ。
男の確認に、女は小さく微笑んで首肯した。
男は満足げに頷いて、身支度を整え始める。
月明りに浮かび上がる冷たい背中を目で追いながら、男の器の小ささよりも、己の心持ちこそが何より哀しいと女は思った。
○ ● ○
「おはようございます!!」
「!!」
不意に眠りを破られて、頭中将は切れ長の瞳を瞬かせた。
何事かとひとまず薄物を羽織る間にも、掛け声は続いている。
「無作法をご容赦ください!」
物音で主が起きてきたことを察したのだろう、少年は即座に朝の挨拶を謝罪に切り替えた。まさに今、訪問先での無礼を窘めようとしていた頭中将は、毒気を抜かれて言葉を飲み込む。少年が自らの行為を恥じるように、頬を赤らめていることに気付いたからだ――確かに、生まれを差し引いたとしても、本来非常識な人物ではない。
小さな物音に振り返ると、塗籠の影から姫君が不安げな顔を覗かせている。親以外に顔を見られることは元より、裸同然の薄着を余人に晒すような不調法な振る舞いは決してしないひとであるはずだが、余程驚かされたのだろう。
申し訳ございません、と重ねられた謝罪に、引き摺られるようにして視線を戻す。その頃には頭中将の明晰な頭脳は、正確に状況を把握しようとしていた。
今日はこの後、舞いの修練の予定が入っている。幼い頃から手ほどきを受けた、師に当たる貴族の屋敷は生憎と方角が悪く、頭中将は昨夜を
非難も制止も、頭中将からの
「……あの、ごめんなさい……お時間です……」
貴人に仕える者にしては子供らしい謝罪に、ついに頭中将は苦笑を漏らした。肝が据わっているのか無鉄砲なのか。何にしても、素直な謝罪と意図せぬ上目遣いは、大人の庇護欲を駆り立てるのに充分な愛らしさだ。甘いとは思うものの、叱責の言葉はいずこかへと霧散してしまう。
「――しばし待て。すぐに出る」
言い置いて踵を返すと、新しい恋人もまた、花のような笑みを浮かべていた。先程までの怯えた様子はきれいに失せ、優しい表情でこちらを見守っている。
「とんだ
優しい声で囁きながら姫の元へ戻ると、両手を取るようにして迎え入れられた。不躾に起こされたというのに、「朝から面白きものを見せていただきました」と悪戯っぽく瞳を覗き込まれ、愛しさと同時に尊敬の念が募る。
寛大な恋人をしっかりと抱き締めてから、頭中将は身支度を整えるために塗籠へと戻った。
「だいたいね、大切なお役目の為に、改めて舞いの基礎から見直したいって言い出したのは、
師の屋敷へと向かう道中、牛車に揺られながら、頭中将は何度目かの溜め息を落とした。
「……ずいぶん機嫌が悪いな」
なぜ主である己がこれほど肩身の狭い思いをしなければならないのだと訝しみながらも、自身の非を認められないほど狭量でもない頭中将は、憮然と零す。
すると、ややあって前方から返されたのは、こちらも拗ねたような呟きだった。
「――ちゃんと北の方様がいらっしゃるのに……」
なるほど、と頭中将は顎に手を当てた。
そもそも、「
そうして、晴れて自由の身になった紫苑を、頭中将は召し抱えてやった。牛飼童はあくまで真似事であり、本来は屋敷の下働きという扱いだが、理由を付けてあちこち連れ回している間に、いつしか身に着けた芸当らしい。今では牛の世話も手慣れたもので、本職の者以上にしっかりと懐かせているのには驚かされる。
結果的に、宴の松原事件の首謀者とやらに反故にされた「定職に就きたい」という希望を、頭中将が代わりに叶えてやった形だ。紫苑への給金はそのまま、彼ら一家への支援ともなる。頭中将は以前にも増して、一方ならぬ感謝と献身の念を受けることとなった。
加えて言うなら、妹の
「お前には難しいか」
これでは先が思い遣られる。笑い含みにそう返してやると、紫苑はプイと顔を背けた。「一生わからなくていいです」と言い置いて、屋形の傍から牛を先導する位置に戻る。お説教からはようやく解放されたようだが、これでは頭中将の立場がない。黙って二人の遣り取りを受け流していた他の者達にも、うっすら笑うような気配がある。
やれやれと肩を竦めながら、頭中将はそれでも、紫苑を咎め立てはしなかった。
紫苑が頭中将の女性関係を嫌うのは、おそらくは好意の裏返しだ。主が自分の理想通りの好人物であってほしいという願望はそのまま、子供の憧れのようなもの。であるだけに、男の浪漫や男女の機微などと言われても理解できない。それがわかっているからこそ、頭中将も無暗に叱り付けるような真似はしないのだ。『薔薇の君』という、己にとっては不名誉な呼称を許しているのも、「だって頭中将様だと、出世されるたびに変えないといけなくなるし、他に何人も同じ呼び方をされてきた人がいるってことでしょ? 貴方だけをお呼びする名前があってもいいじゃないですか」とムキになったように言い張られたのが思いの外可愛らしかったとか、そういったことでは決してない。
――すべては頭中将の寛容さの故。
「お前ほど主に辛辣な者もおるまいよ」
時間が経てば解決すること、仔犬がじゃれついているようなものだと思えば腹も立たぬと己を納得させて、頭中将は小さく苦笑した。
気付けば
●
宮中は今、朱雀院にて開催される『
元々は
中でも、最も人目を引くのが、左方の舞い手二人。これに選ばれたのが、帝の実子すなわち一の院の孫でもある源氏の中将と、左大臣の嫡男・頭中将である。今を時めく貴公子の揃い踏み、舞いの技量はもちろんのこと、見目の麗しさまでを考慮に入れた、異の唱えようもない最適の人選だと言えよう。
式典に先駆けて、当日朱雀院へ赴くことの出来ない身重の藤壷のため、まずは宮中にて試楽が催されることになっているのだが――。
「――素晴らしい!」
師は、品よく老いた顔に満面の笑みを浮かべて、頭中将の舞いを褒め称えた。幼い頃から鍛えた弟子とも呼べる存在が、式典での大役を射止めたことを、心から喜んでくれている様子が窺える。
僅かに乱れた呼吸を整えながら、しかし頭中将は浮かない表情で、そうでしょうかと呟いた。
「今のままでは何かが足りぬと思うのに――それが何なのか、私にはわからない」
これまで誰の前でも吐いたことのない、今回の役目に対する迷いを、頭中将は初めて口にした。それは師である壮年貴族が、今も変わらず、祖父のように優しく厳しく接してくれることに対する甘えや安堵もあったのかもしれない。何せ、一緒に舞うのはあの源氏の中将だ。舞いの技量はもちろん、姿かたちや衣装の着こなしに至るまで、後れを取っているとは思わない。しかし今の自分には何かが欠けている。そう感じられてならなかった。間違っても、世人に「光源氏に見劣りする」などと、思われる訳にはいかないのに。
自分の舞いを基礎から見直したいと考えたのは、そういった模索の一環だった。
「舞いに不調は見えませんが……強いて言うならば、お心持ちの問題でしょうか」
「心持ち?」
慈愛に満ちた眼差しを向けられ、頭中将は素直に繰り返した。拍手の手を解いた師はしかし、それ以上具体的に説明するようなことはせず、微苦笑を深める。
「相手が悪いと言ってしまうのは無礼に当たろうが……しかし、頭中将殿とてひとかどの御方には違いないのだから、お二人ともさぞかし称賛の的になることでしょう」
「……痛み入ります」
どうやら師の側には、弟子の技量に対する不安要素はないらしい。それが知れただけでも意義はあったと思い直して、頭中将もまた微苦笑を返す。
自らが源氏の中将に並び立つ存在であることに関して、頭中将には変わらず疑いの余地はない。今回の重責も、見事に果たしてみせるだけの自信はある。だが同時に、何事においてもはっきりと勝っているとも言い難く、むしろ一歩及ばぬ点もないではないという事実が、このところしきりと気に掛かって仕方がない。
「市中に奇怪な事件の起こる折でもあり、今お二人が慶賀の祝典に大事なお役目を戴いたことも、意味のないことではございますまい」
師の指摘に、頭中将はハッと両の瞳を瞬かせた。世情はいつでも大抵不安定なものだが、
「存分に努めます」
師の厳愛の指導に、頭中将は背筋を正してから、深く
さて、心持ちの問題とは、いったいどういうことだろう。
自邸へ戻る道すがら、牛車の揺れと心地良い疲労感に身を委ねながら、頭中将は師の言葉を何度も反芻していた。
言わんとすることはもちろんわかる。しかし、簡単なようでいて、実はこれほど深い問答というのも珍しいのではないか。実際に頭中将は、気が
――他に思い悩むことなどあっただろうか。
考えても思い当たるフシはなし、そもそも思い出さなければならない煩悶など、その時点で悩みとは言えまい。
どうしたものかと頭を捻るうち、ふと往来の喧騒が耳に飛び込んでくる。
「――何事だ」
人々が集まっているのに気付いて、頭中将は屋形の外へ向かって声を掛けた。「
田楽は本来、
さては客引きも兼ねた宣伝かと納得したところで、笛の音が聞こえてきた。澄んだ音色に合わせて、女舞いが始まったようだ。群衆の間から垣間見えた瞬間の
「最近
屋形に近付いてきた紫苑が小声で囁いた。
「――ほう」
それでこの人だかりか、さもありなん、と頭中将は小さく頷く。と同時に、聞かれるよりも先に主の求める情報を仕入れてきた紫苑の能力の高さにも感心させられた。まったく、良い
だが、当の紫苑はというと、舞いが終わるやいなや、帰宅を急かし始めた。まるで頭中将の好き心を見透かしたかのような態度に、前言を撤回すべきかと、思わず眉根を押さえる。
舞女への惜しみない喝采の中、これ以上ない勢いで後ろ髪を引かれながら、頭中将はその場を後にした。
しかし、その遊芸人の見事な舞いは、正体の見えない逡巡を抱えた頭中将の心に、強い印象を残したのである。
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