第4話 しづたまき野辺の花3
頭中将自身が動くまでもなく、これには
とはいえ、事件前後で不自然に姿を消した女についての捜査は、はかばかしくない。正式に嫌疑が晴れたことで、改めて例の有能な検非違使に確認してみたものの、進展はないという。あとは専門家に任せるという選択肢もあるが、事件の根底に自身への深い怨恨が感じ取れるだけに、放っておくのも薄気味が悪い。
――さて、これからどうしたものか。
本日分の執務を終えた頭中将は、方向性を決めかねた結果、ひとまずは自邸へ戻るべく牛車に乗り込んだ。ちなみに源氏の君は物忌みの為の欠勤である。これもこの時代ならではだが、要は出勤するのに日が悪いということだ。時に自分よりも陰陽道に対して冷静な姿勢を見せる源氏の君、さては物忌みを口実に、どこぞの姫君の元へ参じているのではなかろうか。そんなことを考えながら、
ふと前方が騒がしくなったような気がして、頭中将は右側の
こちらが近付いていく間に、焦れた主は牛車を進ませ始めた。追い縋るかと思われた者はそちらには構わず、車に付き従う
下々が、下級とはいえ貴族に詰め寄る場面というのも珍しい。このところ庶民というものに思いを馳せることの多かった頭中将は、自分の車を停めさせた。
「どうされた」
「これは……頭中将様」
老年に差し掛かったばかりと思しき顔には、動揺の色が濃い。それは果たして、詰め寄る庶民のせいか、急に頭中将に声を掛けられたからなのか。どことなく見覚えがあるような気がしないでもないが、さすがにどこの家の者かまではわかるはずもなかった。
「……頭中将……?」
小さく呟く声に視線を向けると、粗末な身なりの少年が、男の影から身を乗り出すようにしてこちらを見上げている。やや呆然とした様子よりも、薄汚れていてさえわかる、利発な目鼻立ちが印象的だ。
これはと思う間もなく、少年の瞳は頭中将を外れて、今しがた降りてきた牛車へと向けられる。敏い頭中将には、その知的な眼差しが確認したのは、牛車に施された藤原家の家紋ではないかと思われた。
そしてその瞬間、脳裏で先日の妻の話が再生される。
――『愛らしい、物乞いの少年』。
おおよそ成立するとは思い難い珍しい人物評と、目の前の少年が重なった。我が家に現れたという物乞いを頭中将は見た訳ではなく、牛車越しに擦れ違ったと思われる際にも人相まで確認出来てはいなかったが、目の前のこの庶民の少年は確かに、男にしてはなかなか整った面立ちをしている。
無礼を咎めることもなく、まさか、と考え込む頭中将の思考の邪魔をしたのは、誰ぞの家礼の方だ。
「
取り繕うように笑って見せた後、少年の手を振り払い、「人違いじゃと言うておろうに」と吐き捨てる。そのまま「主人を待たせておりますので」と立ち去る姿は、まるで逃げるかのようだった。
不快な呼び方をしてくれる奴よと、頭中将は美しい眉を顰める。相手が女性の時とは大違いだが、これもまた彼の彼たる
はて、あの家紋はどこの家の物だったか……。
「――すみません、お騒がせしました」
乱暴に振り払われた手を、何かを堪えるようにギュッと握り締めてから、少年はぺこりと頭を下げた。そして、これもまた勝手に立ち去ろうと、頭中将に背を向ける。
「待て。お前は、あれがどこの家の者か、知っているのか」
振り返った少年は、驚いたように瞳を瞬かせた。貴族である頭中将から直接話し掛けられたことが、よほど意外だったのだろう。子供らしい、愛らしい仕草はしかし、すぐさま内面を押し隠すかのような隙の無い笑顔に取って代わられる。
「以前道端で怪我をして難儀をしておりましたところを、ご親切にも助けていただいた方かと思いましたので……お人違いだったようですけど」
滑らかな回答は、まるで用意されていたかのようだ。だが、先程の二人の遣り取りは、内容まで聞き取れずとも、そんな穏やかなものには見えなかった。
「…………」
少年が、自邸に現れたという物乞いと、同一人物かまではわからない。
それでも、何となく腑に落ちないものを感じた頭中将は、
一礼して、随身は人ごみに紛れるようにしながら、少年の後を追った。
いずれその身元について、正確な情報を持ち帰ってくることだろう。
●
呼び止められた少女が、飛び上がらんばかりに驚いて足を竦ませるのを、頭中将は大通りに停めた牛車の中から眺めていた。
同じ
ややあって、随身がこちらを指し示すような仕草を見せた。気怠い午後の陽射しが降り注ぐ
連れてまいりましたと礼を取る随身を労って下がらせ、頭中将は、まずは御簾越しに少女と対面する。
「――そなたによく似た、兄か弟はおらぬか」
「え? は、はい。おりますが……」
唐突な問いに、少女は文字通り目を泳がせた。縁もゆかりもない、どこの誰とも知らぬ公家に呼び止められ、家族構成を尋ねられる。傍目にも、少女の混乱は明らかだ。
ここですかさず、御簾を上げさせる。効果たっぷりの美形貴族の登場に、少女は圧倒された様子で息を呑んだ――と、ここまでは頭中将の読み通りだったのだが。
「!」
実際は頭中将の方でも、娘の愛らしさに切れ長の目を見開いていた。御簾越しに俯いていたのではわからなかったが、大きな瞳に通った鼻筋、小さめの唇と、どこをとっても美少女と呼んで差し支えない。
「あああああのっ、兄が何か、ご無礼でも致しましたでしょうか……!?」
頬を真っ赤に染めながらも、必死で敬語を使って問うてくるのが微笑ましい。幼いと言っても差し支えのない様子に、逆に冷静さを取り戻した頭中将は、密かに頷く。 ――そうか、妹か。
頭中将の見込み通り、随身は程なく「
頭中将に
という訳で、己の推論に自信満々の頭中将は、颯爽と梅小路へやって来たのである。
「いや何、お前の兄が、怪我をしたところを助けられたという御方を探しているのに行き合ってな」
「怪我?」
信用した訳ではない少年の言い分をそのまま流用すると、紅潮していた少女の顔色がサッと蒼褪める。しかし、話が過去形であることから、兄が今しがた怪我を負った訳ではないことに気付いたらしく、ホッとしたように表情を緩めた。
「いえ。それ、私のことです。以前往来で、どなたかの牛車を避けた時に転んでしまって。その時親切な方がお医者様に連れて行ってくださったんですが、お名前もわからなくて……きっと兄は、その御方を探しているのだと思います」
「ほう」
なるほどと頷いたのは、少女が右足を引きずる理由に納得したためだ。しかし、話自体には釈然としないものが残る。
随分と気前のいいことだ。少女の口振りからして、その人物はきっと、治療にかかる費用までをすべて持ってやったのに違いない。となれば、相手は貴族ということになるだろうが、こちらは往来を移動するのに牛車を使う。徒歩や馬上にあれば顔や装束程度の確認はできるのだし、素性を知る術がまったくないとは言えまい。これを牛車中の貴族と仮定するとして、では果たして、その状況で他人の牛車が往来の者に怪我をさせたことに、気付けるのだろうか。物音や悲鳴が聞こえたというなら、それなりの大事故だ。しかし、現状から察するに、少女の負傷は捻挫か打撲程度のものだと思われる。車中にあって、その瞬間を目撃していないのなら尚の事、わざわざ車を停めてまで、声を掛けたりするだろうか――少女の美貌を見初めたというならいざ知らず。
兄の側も、また然りだ。その「親切な御方」とやらを探し出したとして、それで何をする? 目の前の少女の折目正しい様子を見る限り、礼ならばその場で散々口にしたはず。そしてそれ以上の返礼が、日々の生活にも困窮する身分の者に叶うはずもない。なぜ探す必要があるのだろう。下手をすれば、ゆすりやたかり目当てと思われかねない行動だ。
そもそも、この話を頭中将にしてみせた際、少年は、怪我をしたのが誰かとは言わなかったが、敢えて隠した可能性もある。妹の存在を隠そうとしたのではないか――
そう、現時点で頭中将は、宴の松原の女房失踪事件について、どこかの貴族が庶民の娘を使って件の女房を演じさせた、その嫌疑を以て自分を陥れようと画策したのではないかという仮説を立てている。そして女房役を演じた女が、自分の周辺で何度か目撃された少年の関係者なのではないかとも踏んでいたのだが……しかし、目の前の少女は、とても何かを企んでいるようには見えなかった。ましてや悪事に加担するなど、考えも及ばないような様子だ――見当違いだろうか。
庶民の娘の腹積もりを見抜けぬ自分ではないとの自負はある。とはいえ、妹はこれでも、兄の方は、何かを隠しているのは間違いない。
落胆しつつも、娘の器量の良さ、兄妹揃っての庶民には珍しい――ある程度の教養の感じられる話し振りに興味を引かれた頭中将は、気を取り直して改めて問い掛ける。
「名は?」
「
兄との面識があると思わせたことが奏功したのか、紅は警戒した風もなく、にこりと微笑んで応えた。共に和の色を用いるなど、兄妹の側には庶民といえど、それなりの教養を持つ者がいるのかもしれない。華やかで愛らしい風貌の二人には相応しい名だ。
思いも掛けない
「なかなかに風雅な名だな」
「ありがとうございます!」
答える紅は、抱えた風呂敷包みを嬉しそうに抱き締めた。
○ ● ○
妹からその話を聞かされ、少年は肝の冷えるような思いで息を呑んだ。
いよいよ自分に疑惑が掛かったということだろうか。やはり姿を見られたのはまずかった。縁もゆかりもない公家になど、情けを掛けたのが間違いだ。
おしゃべりに夢中の妹は、兄の焦りに気付いた風もなく、ややうっとりとした様子で続ける。
「あの時助けてくれた方を探してるんでしょ? 協力してもいいって仰ってくださったの」
記憶の中の貴公子の面影を辿りながらも、針仕事の手は休めない。生きていくために必要なことだ。幼い頃からの習慣は、しっかりと骨身に染みついている。
妹に倣って、少年もまた、衝撃で止めてしまった手を動かし始めた。器用に竹籠を補修しつつも、思考は恐怖と憤怒で満たされている。なぜ、偶然一度顔を合わせただけの人間に協力するなどという話になるのだ。それも貴族が、庶民に。罠だ。そうとしか考えられない。小さな胸に様々な感情が渦巻いて、「貴族の方に名前を聞いてもらえるなんて思わなかった」という弾んだ声も、耳をすり抜けていくかのようだ。
しかし、不意に隣室から小さな物音が聞こえて来て、妹のおしゃべりも少年の憎悪の念も、もろともに断ち切られた。板一枚で仕切られただけの壁は薄い。自分達に心配を掛けまいと、母がどんなに苦心をしても、渇いた咳は届いてしまう。このところ朝晩の冷え込みが厳しくなってきており、元々丈夫でない身体には堪えるのだろう。
「……夢みたいに、素敵な方だったの」
息をひそめ、母の苦しみが治まるのを待ってから、妹がポツリと繰り返した。その声には、先程までの華やぎはない。
「あんな方に目を掛けていただけたら、幸せだろうなぁ」
「――顔だけだろ。公家なんて……関わっても不幸になるだけだ」
無理に何でもないことのように取り繕う様子が痛々しくて、少年はそれ以上の軽口を塞ぐように切り捨てた。住む世界の違う男にくれてやるなど、想像しただけで目眩がする。幸せになんてなれるはずがない。
いつもなら笑って終わるだけの世間話だが、少年の貴族嫌いを知る妹は珍しく「でも」と言葉を継いだ。
「でも、そうしたらお母さんも。紫苑だって……」
「……紅……」
血の濃い少年には、妹の気持ちがはっきりと理解できた。家族が大事なのは妹も同じなのだ。
生まれてからずっと、二人一緒に母の姿を見てきたのだから、貴族が庶民を選ぶはずがないことはわかっている。可愛くて気立てが良くて、何より賢い自慢の妹。わかってはいても、自分が誰か身分の高い男の愛人にでもなれば、少なくとも家族を困窮からは救えるかもしれないと、そう考えているのだ、年頃の娘が。
――なんで庶民に生まれたってだけで、こんな想いをしなくちゃいけないんだ。
人生は不条理だ。今のこの世の中では、身分が低いことはそのまま、貧しいのと同義である。日々の食い扶持にも事欠き、母が病で苦しんでいても、医者には掛かれず薬さえ用意してやれない。
その上、だ。遥か天上で恵まれた暮らしを享受する貴族からは、物の数にも数えられない。だから平気で
――貴族の奴らなんて、僕達を道端の犬猫程度にしか思ってないんだろう!
侘しい住まいの中に、ぷちりぷちりと、
兄のしていることを知らないはずの妹が、初めて手を止め、ことりと首を傾げた。
「紫苑……危ないことしてないよね?」
「うん」
大丈夫だよ、と答える自分の声が、これほど空々しく聞こえたことはない。
大事な家族に嘘をついている罪悪感と、こんな気持ちにさせられる原因を作った貴族達への憎悪が募った。
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