第3話 しづたまき野辺の花2

 自邸への帰路、特に急ぐでもない牛車はゆらゆらと心地良い振動を伝えてくる。

 平時ならばうたた寝でもしてしまいそうなところだが、悲しいかな非常時のさなかにある頭中将は、右膝の上に頬杖をついて、考え込んでいた。決して行儀がいいとは言えない仕草が、恐ろしいほど様になっている。見る人があれば、やや陰鬱な眼差しに含まれた色香に、呼吸を忘れかねないほどだ。

 ――それはそれとして。

 検非違使の話を聞いて、えんの松原の女房失踪事件が鬼の仕業であるとの見解を捨て去るのに、頭中将にはほとんど何の躊躇もなかった。巻き込まれた当事者であるだけに、前提として自身への悪意をありありと感じ取れるということもある。が、それを差し引いたとしても、謎の多い事件をそのまま人外の者の行いだと決め付けるのは、あまりに短慮に過ぎるというもの。考えることを放棄しているように思えてならない。鬼神や妖怪、幽霊などといった、いわゆる超常現象の類いを完全に否定はしないが、少なくとも頭中将自身では、一度も遭遇したことはなかった。「そういったこともあるかもしれない。だが、今回に限っては、無関係なのではないか」――これは当時の貴族としては、相当に冷静で柔軟な物の考え方だと言えるだろう。

 では、鬼の仕業であることを除外するならば、どうだ。

 御簾みす越しに流れていく都大路の人波を見るともなしに眺めながら、改めて事件を整理してみる。

 まず、現場に残された女の手足だ。頭部や衣服等、消えた女房本人であることを確認できる部位は残されていなかったとのことなので、これは別なもので代用しようと思えば出来ないこともない。例えば、身分の低い者達は風葬が一般的で、ほとんどが鳥辺野とりべの辺りに打ち捨てられるのみと聞く。そのような状態ならば、遺体が朽ちる前に手足を切り取り、持ち去ることは可能だろう。まさに鬼畜の所業であり、好んでやりたがる人間もそうは居ないだろうが、それはあくまで平時であればの話だ。人を鬼に仕立て上げようと考え、あまつさえ実行に移すような人物ならば、どんなことでもやってのけるだろう。検非違使の言を容れるなら、男の物である可能性も高く、人の手足であれば(或いはそう見えれば)何でもよいとの苦肉の策とも取れる。

 更に、残されたのが人の手足のみで、血の一滴すら見付からなかったというなら、そのような現場を意図的に作ることは、比較的容易なのではないか。何しろ物の判別も付きがたい時間帯だ。別の場所(先程の案でいうなら鳥辺野辺り)で入手した人間の手足を転がしておいて、怪しい男女はその場をひっそりと離れればいい――。

 ここまでは無理も無駄もなかろうと考えて、頭中将はひとり静かに頷く。恐らく、あの夜宴の松原で行われたのは殺人ではなく、遺体(の一部)の遺棄と、頭中将の名をかたる悪質な狂言失踪(女が共犯でない可能性を考慮するならば誘拐)なのだ。

 次に、その怪しい男女について。「薔薇そうびの君」と呼ばれた男の方は、当の頭中将が自分ではないと断言できる以上、名を騙る偽者であることは間違いない。残された女房二人が、男が頭中将であったと断定してしまったことについては、少々考えがある。とはいえ、暗夜であっても頭中将と見間違えられる風体だけは整えられたのだから、これは貴族と考えて良いのではないだろうか。現場が大内裏中心部であることを差し引いたとしても、庶民に衣装は用意できまいし、どれだけ顔が美しかろうと、襤褸ぼろを纏っていたり、かぐわしい香りがしなければ、普段から貴人を間近にしている女房達が、惑わされたりはしないはずだ。となれば、やはり男は貴族か、その後ろ盾を得た人物ということになる。しかし、その中で頭中将に罪を着せたがるほど憎んでいる人物となると、残念ながら心当たりが多すぎた。左大臣の嫡男である頭中将が、元服して右大臣の四番目の姫君を正妻に迎えたことで、表立って敵対する者こそいなくなったが、皆腹の中では何を考えているかはわからない。そもそもその恵まれた出自をこそ憎まれている可能性もあるのだから、これだけの情報で男を特定するのは、今は早急に過ぎるというものだろう。

 そして、消えた女だ。衛門府えもんふでもしきりに話題になったが、宮中から一人の人間が行方知れずになったというのに、身元が定かにならないなどということがあるだろうか。やんごとない方のゆかりある人物で、外聞を憚っているのだとしても、こうまで噂話の一つも漏れて来ないというのは、さすがに違和感がある。逆に、それほど厳重な箝口令かんこうれいを敷けるような身分の方々が、現時点でたかだか四位の頭中将を追い落とすために、こんな事件を仕掛けるというのも、おかしな話だ――父や舅ならば未だしも。であれば、やはり女は男の共犯とみるのが自然なのだろう。深窓の姫君が人前で茶番に興じるというのは心情的に無理があり、また宮中の女官や女房ならば、バラバラ狂言殺人の目撃者にされてしまった宣耀殿せんようでんの女御に仕える女房二人と、今後どこかで鉢合わせてしまう危険もある。ゆえにこの線も薄かろう。ならば、どこかの家に仕える者か、それとも……。

 屋敷近くに至り、牛車は小路を右に折れた。集中力の切れる折と重なったためか、道の左端を歩く少年と擦れ違うのが目に留まる。両手に野菜を抱えているが、物売りだろうか。しかし、収穫物を売り歩く時間には、少々遅すぎるような気もする。

「………………」

 少年の薄汚れた姿を見遣りながら、頭中将は、貴人でなければ庶民ということもあるだろうか、とぼんやり考えた。宮中ならばいざ知らず、市井の者まで捜索の手を伸ばすとなると、さすがに個人としては手に余る。それこそ雲をつかむような話だ。

 早々に気力の減退を感じ始めて、頭中将は諦念を振り払うように、居住まいを正した。頼るべきものを頼り、己で出来ることを続けるしかあるまい。

 自身を鼓舞することに励むあまりか、野菜を抱えた少年が立ち止まり、やや呆然とした様子でこちらを凝視していることには、ついぞ気付かなかった。



 四の君のおとないが知らされたのは、着替えを済ませた頭中将が、文をしたためていた時のことだ。

「お帰りなさいませ」

 ツンとすました様子で、卓の側に腰を下ろす。夫の手元になどお構いなしだ。尤もこれは、またどこぞの姫への恋文かと疑われているためであって、悪いのは四の君ばかりとは言えない。

 ひとまずは笑顔で応えた頭中将に対し、四の君は家人への不満を滔々と述べ始める。美しいけれど、元々気が強く、自分だけでなく他人にも厳しいところのある四の君を、稀代の貴公子・頭中将はたびたび持て余すことがあった。今がまさにそうだ。招婿婚しょうせいこんの時代にあって、夫の家に同居することを許された正妻ではあるが、政略結婚で(当時)敵対していた右大臣家の姫君という出自のためか、家人の振る舞いに対する不満も多い様だ。

「貴方様からも、何とか言ってやってくださいませ」

 強い口調で語られるのは、側仕えの女房(当然実家から連れてきた腹心の女房で、今も次の間に控えている)から聞いたという話――下働きの女達が、物乞いに来た少年の愛らしさにほだされて、傷みそうな野菜を分けてやったらしい、味をしめて癖になったらどうするつもりだ、そもそも主人の財産を勝手に云々。

「――ああ」

 頭中将が声を漏らしたのは、その少年とやらに心当たりがあったためだ。先程牛車で擦れ違ったあの子供は、我が家からの帰りだったかと、小さく頷く。愛らしいかどうかまでは確認できなかったが、確かに、葉野菜をたくさん抱えていた。

 が、それも束の間、その少年が呼び水になり、頭中将の思考は自然と、その時考えていたこと――事件の方へと流されていった。四の君には悪いが、仏教における末法思想の蔓延する昨今、来世での救いを得るための手段として、現世で他者に施しを与えることで、いわゆる仏教的満足感を得んとする者は多い。それでなくとも、頭中将は満たされて生まれてきた側の人間だ。傷みかけた食材など、欲しがる者があるならくれてやれば良いではないかとも思う。四の君だって立場は同じであろうに、よくよく生真面目な方だ、というのが、頭中将の偽らざる本音であり、ゆえに妻の訴えをさほどのこととは受け止められなかった。

 さて、庶民の暮らしが貴族のように恵まれてはいないということくらいは、頭中将にもわかる。であれば、事故や病気、大小問わずの犯罪等で、行方不明者など、それこそ山のようにいるのだろう。戸籍制度は既に破綻しきっている。頭中将の力はそのまま藤原家の力でもあるが、それでも市井の人間すべてが捜索の対象となると、さすがに手に余るというのは想像に容易い。ここはやはり専門家の手を借りるのが最善だろうか。ツテというほどではないが、先程の検非違使などは、かなり使える様子だった。とはいえ、不本意ではあるが、頭中将は事件への関与が疑われている身だ。話を聞く以上の協力を求めても申し出ても、あまり良い顔はされないかもしれない……。

「…………」

 傍目には黙り込んだようにしか見えない頭中将が、その実別な何かに気を取られていることに勘付いたのは、四の君の女としての勘だったのか否か。

「――まだお疑いは晴れませんの?」

「!」

 ハッとして、頭中将は思わず妻を凝視した。物怖じする風もなく、きらりと光る眼で見返してくる様子には、こちらの真意を一つたりとも見逃すまいとの、強い意思が窺える。

 頭中将はこれまで、身に覚えのない嫌疑を掛けられていることはおろか、宴の松原の怪事件に関してさえ、四の君との話題にのぼらせたことはない。屋敷の奥深くに籠った姫君に、外の世界の情報をもたらす存在は、ごく僅かだ。

「父も心配しておりました」

 重ねられた言葉に、さては右大臣家の誰かの入れ知恵らしいと悟る。知られる前に片を付けねばと考えていた折も折、よその女の元へ通っているのを皮肉られたような気分になって、頭中将は聞こえよがしに溜め息をついた。

「そのようにご心配なさらずとも、貴女やご実家に迷惑の掛かるようなことにはなりますまい」

「……」

 倍になった小言が返ってくるか、或いは怒って立ち去るか。きつい口調で言い捨てて文机に向き直った頭中将だったが、四の君に動きはない。訝しんで振り返ると、思いも掛けず、傷付いたような表情に驚かされる。

「……わたくしが、保身のためだけにうるさく騒ぎ立てているとでもお思い?」

「……君……」

 俯いた細い肩は、小さく震えていた。これまで知らなかった妻の可愛らしい一面に動揺しながらも、頭中将の胸は甘く疼き始める。普段は冷たい美貌がほんのりと赤く染まっているのが、何とも艶めかしい。

 手にした筆も、事件について考えることも放棄して、頭中将は四の君を抱き寄せた。

「申し訳ない。つい気が急いて、貴女を傷付けるような真似をしてしまった」

 優しく囁きながら、控えた女房にチラリと視線を向ける。それを確認するよりも早く、老練な女房は心得た様子で立ち去るところだった。

「わたくし、貴方様が心配で……」

 つい、と言い訳をするように胸元に縋り付いたのが、きっと四の君の真実の姿なのだろう。出自に対する自尊心、政敵に嫁がされた屈辱、夫の好き心への嫉妬。すべてを抱え込んで、それでもなお、四の君は夫である頭中将を愛してくれている。

「――ええ、わかっております」

 いつになく素直な四の君が、共に過ごしたどんな時よりも愛しく感じられて、頭中将は従順な身体をそっと組み敷いた。


                  ●


 日を改め、最低限の執務を終えた頭中将は、さる貴族の屋敷へ向かった。

 先日は図らずも、明るいうちから四の君と盛り上がってしまったが、その際に手掛けていた文は、この日の面会を求めるためのものだ。

「――この度は、まことに申し訳なく……!」

 年齢も官位も頭中将より上のはずの壮年貴族は、客間に姿を現すやいなや、平身低頭で謝罪を口にした。というのも、宴の松原の怪異に遭遇した「二人の女房」というのは、桐壷帝きりつぼてい入内じゅだいしたこの家の一の姫――今は宣耀殿せんようでん女御にょうごと呼ばれるお方に付き従って参内している者達である。家の者がおかしな事件に巻き込まれたことで、口さがない京雀きょうすずめ達の噂の的になってしまっただけでなく、その二人の証言のために、頭中将の立場が微妙なものになってしまっていることも、当然ながら聞き及んでいるのに違いない。おそらくは本人が抗議のために乗り込んできたとでも思っているのだろう。腹の底で何を考えていたとしても、左大臣と右大臣の両方を表立って敵に回すことに抵抗のない公家など、居るものではない。

「ああ、どうぞお顔をお上げください」

 やや芝居がかった微苦笑を浮かべて、頭中将は壮年貴族を労わった。そのまま、恐縮しきりといった様子の相手に、現状を切々と訴える。

「とはいえ、まったくの濡れ衣を着せられて、少々困ったことになっております。疑惑を晴らすべく関係者に事実を確認しておりますので、ぜひともこちらの方々にも、直接お話をお伺いしたいと思いまして」

「ええ、それはもう」

 あくまでも穏便に、改めて来意を伝えた頭中将に対して、壮年貴族は二つ返事で頷いた。これ、と声を掛けると同時に、しずしずと二人の女が入室してくる。頭中将の申し出に対し、女御の実父は早々に手を打ち、二人を宮中から呼び戻してくれたらしい。

「この度は、わたくし共の浅慮にて、頭中将様には多大なご迷惑を……」

 「二人の女房」もまた、平伏するなり、口々に謝罪を述べた。余程主人に言い含められているのか、頭中将本人が自分達を名指しで会いに来たことに、緊張しきっている。

 自分と視線を合わせることなく頭を下げた二人に、頭中将はまず顔を上げるよう伝えてから、殊更に優しく微笑んだ。

「いや、そなた達は詮議に対して正直に、あったことを述べただけなのだろう。それを責めるつもりなどないよ」

 穏やかな口調に、女房達は不安げな面持ちのまま、おずおずと顔を上げる。二つの視線が自らの姿をしっかりと捉えるよう、頭中将はやや大袈裟に言を重ねた。

「私が確認したいのは、その消えた女房とやらは、怪しい男を私の名で呼んだとのことだが――その男は、真実私であっただろうか?」

「――!!」

 当代きっての貴公子の流し目に、怯えたような女房達の頬がサッと赤らんだ。まず真っ先に顔を上げさせたのはこのためだったが、効果は覿面てきめんのようだ。二人は揃って陶然とした直後、我に返った様子で先を争うように言い募る。

「いいえいいえ! こうしてお傍でお顔を拝見して、確信いたしましたわ!」

「あれは薔薇そうびの君様ほど美しくはありませんでした!」

 ――ああ、やはり!

 鷹揚に頷いて見せながらも、頭中将は胸中で快哉を叫んだ。

 例の検非違使の話では、怪しい女が『薔薇の君』と呼んだ男について、女房達からは「薔薇の君のように見えた」程度の曖昧な証言しか得られていないとのことだった。さも断定されたかのような話になっているが、あくまでも噂の範疇だ。きっとこの二人は、頭中将という人物を知ってはいても、実物は遠目に見掛けたことがある、くらいの認識でしかなかったのだろう。その場に居たのが頭中将であったのなら、「女を手招いたのは薔薇の君に間違いない」とはっきり答えたはずだ。

 ――一度でも間近に私を見掛けたことのある女が、偽者になど惑わされる道理がないではないか!

 気に入らぬ呼び名ではあるが、思った通りの反応を引き出せたことで、頭中将はひとまず溜飲を下げた。「宮中において、この私のことを知らぬ女などいるはずがない」という、実に頭中将らしい自信から出た推測だったが、取り敢えずは功を奏したと言うべきか。

 女房達の勢いもあって、主人は彼女達の証言を、改めて検非違使に訴え出ることを約束してくれた。

 この後、消えた女房についていくつか確認をしてから、頭中将は意気揚々と引き上げたのである。

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