第5話 しづたまき野辺の花4

 ある夜の事、源氏の君が頭中将の屋敷を訪れた。

 今度こそ、さる姫君の元へ通うための方違かたたがえであると認めた友人を私室の縁に迎え入れ、ひとまずは一献酌み交わす。占いやまじないに対して冷ややかなはずの源氏の君の訪いは、恐らくは頭中将の様子を慮ってのことだろう。こちらは好き心など見せる余裕もないのにお盛んなことだと笑いながらも、気に掛けてくれる人の存在は素直に嬉しい。

「――疑いは晴れたというのに、何か気掛かりでも?」

 真正面から聞かれたのは、ふと会話の途切れた時のことだ。普段通りに振る舞っていたつもりだが、源氏の君にはお見通しだったらしい。軽めの口調からは、大方女人のことだと決めて掛かっているふしが窺える。

 巧く隠しおおせていないのなら、今更取り繕っても仕方がない。気心の知れた相手を前に、頭中将ははっきりと渋面を作った。



べにに近付かないでください」

 随身ずいしんから、少年の妹――紅が市場で野菜と交換した着物の端切れの柄と、宣耀殿せんようでん女御にょうごの女房達が記憶していた、消えた女の着物の柄とが一致したとの報せを受けた頭中将は、日を改め、再度少年――紫苑しおんに会いに行ってみたのだが、開口一番がこれだった。

 にこりともしないばかりか、慎ましい家屋の前で農機具らしきものを片付けていた紫苑は、サッサとその作業に戻ってしまう。自分の居ない所で大事な妹に近付かれたことを快く思っていないのかと考え、頭中将は誤解するなとばかりに微苦笑を浮かべた。

「確かに、お前の妹は素晴らしい女人になるだろうが……少々幼過ぎる」

「何だって!?」

 音もせんばかりに噛み付かれて、今度こそ頭中将は当惑の表情を浮かべた。手を出すなと言うから、自分には相応しくないのでそのつもりはないと答えたのに、激怒されるとは。筋が通らないにも程がある。

 しかし、そこで無礼なと憤慨するほど、頭中将は小者ではなかった。このままでは埒が明かない。どう答えれば気に入るんだと言いたいのをグッと堪えて、完璧な笑顔を作る。

「この間の話だが、お前の言う恩人とやらを探してやれない訳ではないぞ」

 妹に伝えたことを、兄にもそのまま提案してみる。これはもちろん、紫苑の出方を探るためだ。案の定、興味なさげな一瞥を寄越しただけで、紫苑は再び背を向けた。

「ほんとは、そんなに知りたくないです」

「なぜだ」

「お公家さんなんて大嫌いだから」

 拒絶も露わな紫苑の態度の元凶が知れて、頭中将は「そうか」と答えるに留める。妹がどうとか、突然協力を申し出られて困惑しているなどといった、生易しい感情ではないようだ。それは、単に自分達より良い暮らしをしている者達への一方的な逆恨みかもしれないし、何か余程の目に遭わされた過去があるのかもしれない。何にせよ、ほぼ初対面のような関係性で、貴族である頭中将がおいそれと理由をただして良い問題ではないように思われた。そもそも恩人を探したいという紫苑の発言自体、嘘である可能性が高いのだ。本心ではないところから引き摺り出した話題を続けても、警戒を強めさせるだけのことにならないとも限らない。

 追及しない頭中将に逆に興味を引かれたのか、片付けを終えた紫苑はパタパタと埃を払いながら振り返った。

「そっちこそ、なんで僕達なんかに構うんですか」

 口調は反抗的であっても、正面から見れば、やはり薄汚れた顔はそれなりに愛らしい。妹とよく似た、といってしまえば兄としての立つ瀬はなかろうが、野辺のべの花にも鑑賞に堪えうるものは存在するということだ。

 会話が成り立ちそうなことに満足して、頭中将は敢えて人の悪い笑みを作った。

「庶民というものの暮らしぶりが知りたくなってな」

 嫌いと一括りにされた意趣返しだが、予想通り、紫苑は憮然とした表情を浮かべる。

「何それ」

「後学の為だ」

「嘘でしょ」

「それはお互い様だろう」

 無礼極まりないという点を除けば、実に小気味の良い応酬だ。確かに頭中将は見え見えの嘘をついた。紫苑を一目で利発と見抜いた己の眼力に、改めて感心する。更には、暗に「お前も嘘吐きだろう」との指摘に、紫苑が初めて言葉に詰まる様子を見せたことで、頭中将はひとまず溜飲を下げた。このくらいで大目に見てやることにする。

 ――それはそれとして、だ。

「お前は、いつぞやの家礼けらいと面識があるのではないか?」

「人違いですって言ったでしょ」

 本題には同じ答えが返された。こちらも当意即妙ではあるが、先程とは違って、最初から用意されていた感が強い。

 ふむ、と頭中将は小さく息を吐いた。探しているのは恩人などではなく、責め立てていたように見えたあの男なのではないかと思ったのだが、まあ、素直に吐くとも思えない。

 とはいえ、不審な動きを見せたこの少年が、多少なりとも事件に関与しているならば、それはそのまま頭中将を陥れんと企む真犯人へ繋がる重要な鍵となるのだ。逃がす訳にはいかない。

 ――ここは人となりを知る為にも、雑談などどうだろうか。

「お前達、普段は何をして過ごしているのだ。得意なことや趣味などはあるか」

 「庶民の暮らしぶり」「後学」の発言を踏まえて、頭中将はそんな問いを投げ掛けてみた。要は懐柔だ。これを味方に付ければ、降り掛かる火の粉を払う程度の役には立つかもしれないとの打算もある。

 しかし、少々露骨に過ぎたのか、紫苑はプイと顔を背けた。

「庶民にそんな暇ないです――もういいですか」

 そして、こちらの返答も待たずに、サッと家の中に消える。

 かくして対面は甲斐なく終わり、頭中将は屈辱に震えながら、通りに待たせた牛車へ戻るしかなかったのである。



 立てた片膝に頬杖を突いたまま、頭中将は苛々と眉根を寄せた。

 行儀の悪い仕草もとことん様になる、嫌味なくらいの男振りだ。しかしその原因はというと、要は紫苑が自分に懐きそうにないことが不満であるという、少々大人げない理由である。

 初対面の時と比べて、随分と冷ややかな態度だった。無礼はもちろんだが、この私が歩み寄ろうとしてやっているというのに! 顔が可愛らしいだけに、余計に腹立たしいではないか!

「貴方をてこずらせる女人がいるとは……」

 案の定、源氏の君は気鬱の理由が恋愛沙汰であると思い込んでいるらしい。楽しげに肩を揺らすのに溜め息をついて、頭中将は「そうではない」と小さく頭を振った。

「役に立つこともあるかと、庶民の子供を手懐けているのだが、なかなか手強くてな」

 今はまだ自分の直感でしかない、えんの松原事件との関わりは伏せる。相手が友人とはいえ、証拠もないのに他言するほど、頭中将は愚かではない。

「これはまた酔狂な」

 源氏の君は、やや大袈裟な様子で驚いて見せた。それ以上追及するそぶりのないところは、彼なりの優しさだったのかもしれない。

 好意をありがたく受け入れ、頭中将は詳細をぼかしたまま、ぼやくように続ける。

「まあ、故あってな。――何があったか知らんが、筋金入りの公家嫌いだ」

 最初の、あの礼儀正しさは演技だったのだろう。まったく厄介な、と歯噛みするのに、源氏の君は鷹揚おうように頷く。

「生まれは選べませんからねぇ」

 おっとりとした口調の中には、何か含みのようなものが感じられる。それが単純に紫苑の「庶民に生まれたことでの苦労や、裕福な者への妬み」などといった感情を指すだけではないような気がして、頭中将は思わず背筋を正した。

「君がそれを言うのか」

「誰しもが望まれて生まれてくる訳ではないでしょう」

「……」

 うっすらと浮かべられた笑みは、どこまでも典雅で美しい。この世の誰よりも恵まれた出自にあると信じて疑うことすらなかった友人の中にも、何かしら闇のような部分が存在することに、頭中将はその時初めて気付かされた。そう言われれば確かに、帝による、身分の低い更衣こういただ一人への偏愛は、当時の後宮の調和を著しく乱したと聞く。早々に臣下の位を賜ったのは父帝の子を想う配慮のゆえであろうが、そもそもそんな宣旨せんじが必要になるほどには、大半の人間にとって源氏の君の誕生は、騒乱の種でしかなかったということだ。

 朝廷での栄達を約束された身分でありながら、貴族中心の社会を疎む者の気持ちもわからないではない、というのが、源氏の君の偽らざるところなのかもしれない。

 りりり、と虫の声が聞こえる。

「貴方がそれほど入れ込むとは……余程の娘なのでしょうね」

 不意に源氏の君がまぜっかえした。喋り過ぎたと思ったのか、明るい声音には場の雰囲気を変えんとする意図が見え隠れしている。友人としてその意を汲むべく、頭中将は「いや」と再度首を横に振った。

「『役に立つかも』と言っただろう。男だ」

 憂いの色を完全に捨て去ったらしい源氏の君は、「何だつまらん」とばかりに肩を竦める。しかしそのまま投げ出すような不義理な真似はせず、華やかに微笑んだ。

「まあ、相手が何者であれ、気を引きたいのなら、やるべきことは一つでしょうね」

 頭中将はハッとしたように手を打った。


                  ●


「――!!」

 荷車いっぱいの野菜と上等な布地を前に、紫苑の大きな瞳が限界まで見開かれた。

 二度と尋ねて来なければ幸い、まだ自分達の身辺を探りに来るようならどうやって追い返してやろうかと考えていたであろう相手が、大量の施しと共に再来したのだ、驚かないはずがない。懐柔の為にここまでするのかと激昂するよりも先に、騒ぎを聞き付けた近所の者達が集まり始め、そのあまりの悪目立ちぶりに慌てふためく。

「――ちちちちちょっと! こっち!!」

 咄嗟に人目に付かない場所をと考えたのか、背後から狩衣かりぎぬの肩をグイグイと押される。ご満悦の頭中将は、無礼なと憤る随身ずいしんを下がらせ、紫苑のしたいようにされてやった。贈り物攻勢しかないという好敵手の助言をそのまま受け入れたことも、好意的でない庶民の子供のご機嫌を窺うというのも癪ではあったが、度肝を抜かれた紫苑の子供らしい様子に、すべてが帳消しになったような、愉快な気分だ。

 紫苑が頭中将を連れてきたのは、家並みの裏手を走る小川の土手だった。近隣住民の飲み水にでも使われているのだろうか、清涼な流れが午後の陽射しを受けて、キラキラと輝いている。下流の方で子供達が戯れているのが、何とも長閑な風景だ。

 良い風が吹いている、と感じ入る間もなく、紫苑が頭中将の背を押し出すようにして距離を取った。

「紅には近付かないでって言ったじゃないですか!」

 振り返ると、幼さの残る顔に怒色をいっぱいに浮かべて吐き捨てる。しかしこれは妹の美しさを笠に着た言い方であって、必ずしも正しくはない。「自分に」というのが本音だろう。宴の松原から消えた女房が着ていたのと同じ柄の布地を物々交換に行く紅には後ろ暗そうなところは一点もなく、挙動に疑問が感じられるのは紫苑自身の方だからだ。

「私が近付きたいと思っているのは、お前の方だが」

 だから頭中将も、同じようにして論点をぼかした返答をしてやった。これも決して嘘ではない。冤罪に煩わされた今この時期に、自分の周りで何度も不自然に目撃された。庶民の少年が事件の黒幕とまでは思わないが、何かしらの事情があるのは間違いない。

「な、何を……」

 紫苑がおどおどと口籠ったのは、疚しさのせいばかりではないのだろう。真顔の貴公子に圧倒されたのか、程良く陽に焼けた頬がほんのりと赤らんでいる。いっぱしの駆け引きを試みる中にも、時折見え隠れするあどけなさに興味を惹かれて、頭中将は自分をたばかろうと策を巡らす相手を前に、つい頬を緩めてしまう。

「わかっているだろう?」

 明確な意図をもって、頭中将は意味深な流し目を紫苑に送った。私が何を言いたいのか、賢いお前にならわかるだろう、言いたいことがあるなら話してしまえとの算段だったが、紫苑の反応が楽しかったというのも否定できない。

「! 知るもんか……ッ!」

 子供らしい反応を見せた紫苑は、プイと顔を背け、ひとまず頭中将から離れようとしたらしい。しかし動揺からか、川原の小石に足を取られてしまう。

「うわ!」

「おっと――大丈夫か?」

 体勢を崩した小柄な身体を咄嗟に支えてやりながら、頭中将はさすがに揶揄からかいが過ぎたかと少しだけ反省をした。紫苑が素直に「ありがとうございます……」と感謝を口にしたせいもある。

 至近距離で改めて認識した紫苑は、やはり見れば見るほど愛らしい顔立ちをしていた。妹と比べればいくらか男性的ではあるものの、血縁関係は明らかだ。

「お前達は、本当によく似ているな」

 漏らした感想に、さほどの意味があった訳ではない。しかし紫苑は、少し迷うような様子を見せた後、ふと視線を逸らした。

「……双子なので」

「――!」

 小さな告白に、思わず瞠目する。歳の近い兄妹という訳ではなく、男女の双子。道理で背格好まで似ているはずだ。では。

「それは、母君も難儀されたことだろうな……」

 嘆息してから、頭中将は紫苑を解放してやった。この時代でも、社会は当然のように、多胎児たたいじを快く受け止めてはいない。彼らの母親はおそらく、忌み子を産んだとされて、相当な苦労を強いられて来たはずだ。そしてそれは、彼ら兄妹も例外ではない。

「…………」

 紫苑は驚いたように、こちらを見上げていた。口振りから、頭中将が多胎児に対する差別を不当なもの、迷信だと断じていることは知れたが、それを信じて良いのか、そもそもどういった反応を返せばよいのかと、測りかねているのだろう。

 言い出したのは自分であるにも関わらず、紫苑の表情が泣き出す手前のように歪められる。その様子から、頭中将は紫苑が、自分を遠ざけるためにわざわざ言いたくもないことを口にしたのだと察した。――痛々しいことよ。

 気まずさを誤魔化すように、紫苑がその場にしゃがみこむ。選別するかのようにてのひらを彷徨わせた後、手頃な石を手に取って、川面に向かって放り投げた。平たい石くれは三段ほど跳ねてから、水中に消える。

「――何だ、それは」

 少年が何のてらいもなく見せた見事な技に、頭中将は思わず唸った。一方の紫苑はというと、ただの手遊びに深刻な反応を返されて、睫毛を瞬かせる。住む世界の違う者同士の微妙な擦れ違いだが、本人達は至って真面目だ。

「……水切りだけど……」

「もう一度やって見せろ」

 高圧的とも取れる頭中将の言い様に、紫苑は素直に従った。黙って石を拾い、再度水面に向かって放る。今度は倍の六段跳ねた。少年らしく「よし!」と歓声を上げる横で、頭中将もまた見様見真似で石を選んで、同じようにして川面に投げて見せる――が、うまくいかない。

「難しいな」

「……石は出来るだけ平たいのを選ぶんだよ」

 実際に手を出してみたことが功を奏したのか、紫苑はおずおずといった様子で、水切りについての講義を始めた。初めて見た技を習得したいという、頭中将の生真面目な態度にほだされたのかもしれない。

 石選び、握り方、投げ方までを教わり、元々器用な頭中将はものの数刻で、五段の水切りを成功させた。

「やったぁ!」

 頭中将がグッと拳を握り締める傍らで、紫苑が我が事のように、諸手を上げて飛び跳ねる。

 朝廷に官職を得、妻子もある身とて、頭中将も実際の年齢的には二十歳そこそこの若者だ。世間一般の男子が出来て嬉しいことは、同じように純粋に嬉しい。しかしそれを下々の前で露骨に表すのは、との自制が働き、殊更に鷹揚に構えて見せる。

「この私に不可能などない」

「何それ!」

 明らかに喜んでいたくせに、まるで掌を返したかのような頭中将の言い様が余程おかしかったのだろう、紫苑はアハハと声を上げて笑った。

 これほど屈託のない様子は初めて見る。

 お前という奴はどこまで無礼なのだと呆れ返って見せながらも、これがこの者の本質なのではないかと、頭中将は思った。

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