第6話 CBTとOSCEと

「ヤミ子、そろそろ休憩しない? CT画像ばっかり見て脳が疲れた」

「確かに、もう2時間ぐらいやってるもんね。お昼ご飯にはまだ早いけど休憩しよっか」


 そして時は少し流れ、2020年9月下旬の日曜日。


 下宿のLDKのテーブルで、私たちは10月末に予定されている進級試験CBTに向けて朝から勉強に励んでいた。



 CBTとは「Computer-based Test」の略で、その名の通り回答はすべてパソコン上で行われる。


 大学によって実施日程は大きく異なるけど医学生の病院実習(クリニカル・クラークシップ)を実施しない医学部医学科は現代日本には一つも存在しないので、どこの大学でも医学生は必ずCBTを受験することになる。



 全ての受験生が紙媒体で配布される同じ問題を解く医師国家試験とは違って、CBTでは過去に蓄積された大量の試験問題(プール問題)からランダムに出題が行われるから受験生ごとに解く問題は全く別になる。


 解く問題が同じ大学の隣の席の受験生とさえも一致しないのでカンニングは事実上不可能になっていて、同時にCBTは大学によって実施日程が異なっても問題がないという性質を持っている。


 そもそもCBTは医学生にクリクラに参加するために必要な知識が身に付いているかを確かめるためのもので、現在の日本ではCBTとPre-CC OSCEオスキーの両方に合格した医学生しかクリクラに参加することはできない。


 クリクラに参加できない医学生を1年間の大半をクリクラが占める5回生に進級させても仕方がないので、CBTの本試験で不合格になり再試験でも合格基準に達しなかった医学生は必ず留年することになる。


 研究医養成コース生は1度でも留年すると研究医生の身分を剥奪され減免されていた学費も一括で返金する必要があるので、私とヤミ子は空いている時間はひたすら勉強する勢いでCBTに向けた学習に励んでいた。



 CBTの問題の形式は医師国家試験と同様に全て選択式(客観式)で、出題範囲もほとんど同じ。


 医師国家試験では直接出題されることはほとんどない基礎医学が多く出題される点は異なっているけど、それ以外はほとんど変わらずCBTでも臨床医学の全範囲と公衆衛生学、法医学など社会医学の一部が主な出題範囲になっている。


 その一方でCBTで出題されるのは病院実習に参加するために最低限必要な知識、すなわち患者数の多いメジャーな疾患に限定されているので合格のために必要な勉強量は医師国家試験と比べればはるかに少ない。


 合格に必要な得点率も65%~70%程度と医師国家試験に比べれば余裕があって、再試験もあるので実際にはCBTに不合格になって留年してしまう学生はそれほど多くなかった。


 それでもちゃんと勉強しておかないと安心できないし、臨床医学の知識をちゃんと身に付けておくことはクリクラが始まってから十分以上に役に立つので真面目な医学生は3回生の頃からCBTを見据えて勉強を始めていた。



 CBTの説明はそれぐらいにするとして、私とヤミ子はいつもLDKに置かれたテーブルに並んで勉強している。


 私は10じょうのLDKから扉1枚を隔てた6帖の和室を自分の部屋にして貰っているけど、一人きりで勉強していると孤独に感じるしお互いを怠けていないか監視する目的もあって私たちは2人一緒に勉強することにしていた。


 ヤミ子はノートパソコンを開いてブラウザからQSクエスチョン・ストックの問題を解いていて、私は充電ケーブルをつないだスマートフォンで同じことをしていた。


 QSは国試予備校が運営している問題演習サービスで、CBTと医師国家試験のそれぞれについて過去問や予想問題をインターネット上で演習できるものだ。


 畿内医大の医学生は大学を通じて割安で契約できるようになっていて、私たちは3回生の頃からQSのCBT版で問題演習を続けていた。



 私もヤミ子も国試予備校の映像講義は一通り受講を終えていて、今はひたすらQSを解いている。


 最終的な目標はQSのどこから出題されても一瞬で正答してその根拠も説明できるようになることで、私もヤミ子もそろそろその域に至りつつあった。


 9月下旬の今でも映像講義を受け終えていない学生もいる中で、私とヤミ子はかなり余裕を持ってCBT対策を進められていると言えるだろう。



「10月の授業はほとんど遠隔になるらしいから今はこんなに頑張らなくてもいいかも。私、ヤミ子とお出かけしたい」

「近場ならいいけど、まだ暑いからお昼ご飯はここで済ませたいかなー。余ってるそうめんとか食べちゃいたいし」


 コロナ禍が始まってからは2人で外食をした経験はほとんどなく、昼食を1人で済ませないといけない時に大学近くの飲食店に立ち寄る程度だった。


 ヤミ子が作ってくれる料理はどれも美味しいので下宿でご飯を済ませることには何の文句もなかったけど、たまにはヤミ子と外出したいというのも本音だった。



 勉強を中断してうーん、と背伸びをしたヤミ子を見るとまだ夏服のままの部屋着はヤミ子のボディラインをくっきりと示していた。


 お昼ご飯の前にヤミ子とスキンシップをしたいと思ったけど、昨日の夜にした所なので流石によくないと考えを打ち切った。



「あ、そうだ。さっちゃん、お昼ご飯の前にちょっと付き合ってくれない? 寝室でしようと思うんだけど」

「えっ!? それは、すごく嬉しいけど……」


 性的指向の関係上ヤミ子からこういうことを言ってくれる機会は少ないので、私は突然の申し出に戸惑っていた。


 そんな私をヤミ子は不思議そうな表情で見て、何かに気づいた様子で再び口を開く。



「いや違うの、そういう意味じゃなくてOSCEオスキーの練習しよっかなって。気分転換にもなるし」

「ああ、そういうこと……。確かに、そろそろ練習始めてもいい時期かな」


 OSCEは医師になるための技能を問う試験で、クリクラの開始前に行われるものはPre-CC OSCEと呼ばれている。


 私たちが5回生に進級するために受験するのはこのPre-CC OSCEで、ここではクリクラに参加するための必要最低限の技能が確認される。


 Pre-CC OSCEでは基礎的な問診(医療面接)、手術用手袋とガウンの着用、身体診察、心肺蘇生法といった項目が実技形式で問われ、私たちも11月中旬の本試験に備えて大学のウェブサイトから解説動画を視聴していた。


 解説動画は10年以上前に作られた古い映像だけど内容はしっかりしていて、何回も見返して勉強することは当然必要として実技試験である以上は実際に他者と協力して練習する必要がある。


 11月初頭の本試験直前には大学でもOSCE対策の実習が行われるけど、今のうちから個人で練習しておいても損はなかった。



「ちょうどこの前OSCEの課題メモを作ってみたから問題点がないか確かめたいし。さっちゃんにメモを印刷して渡すから、それに従ってやってみてくれない? 私が患者さん役で」

「うん、全然いいよ。ヤミ子、また資料作ったんだね」


 ヤミ子は1回生の頃から試験資料を自作するのが得意で、OSCE対策の資料も作っていたらしい。


 下宿を始めた時に奮発して買ったA3サイズの複合機から印刷されたプリントをホッチキスで留めると、ヤミ子は1部を私に差し出した。



「へえー、すごくよくできてる。台詞も一つ一つ入ってるし」

「OSCE対策の映像を一通り見てればこのメモだけで再現できるように作ったんだよ。最終的には何も見ずにやれないといけないけどね」


 課題メモのクオリティに感嘆しつつ私はヤミ子と一緒に下宿の寝室へと入っていった。


 私たちのOSCE合格体験記は、この時から始まったのだ。

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