279 気分は急転直下

「……塔也君。ちょっと君に大事な話がある」

「どうしたの?」


 火葬が終わって遠方から来た親戚は全員帰り、僕はおばさんの自宅の後始末も終わって一息ついていた。


 既に22時を回った今は僕と母と祖父母しかこの場に残っておらず、後は同じ今治にある祖父母の自宅に戻って休むだけだった。



 祖父に呼ばれておばさんの自宅の和室に入るとそこには座布団に腰かけた祖母と正座した母が待機していた。


 何故かしこまっているのか不思議に思いつつ、僕も祖父から差し出された座布団にあぐらをかいた。



「さて塔也君、今から話すことは君の人生を一変させることになるから心して聞いてくれ。今のうちに言っておくが、ここにいる4人以外には誰にも他言しないように」

「う、うん。その、話って一体……?」


 シビア過ぎる念押しをした祖父にたじろぎつつ、僕はこれから始まる話に耳を傾けた。



「昨日から今日まで淑子さんの遺産を整理していたんだが、とんでもないことが判明した。淑子さんは亡くなる4年前に同じ年頃の男性と再婚していて、その男性は昨年亡くなっていたらしい」

「へえー、そうなんだ。淑子おばさん、晩年までお盛んだったんだね」


 同じ年頃の相手とはいえおばさんは83歳にもなって二度目の新婚生活を送っていたと知り、僕は色々な意味で感心した。



「ここからが問題なんだ。その男性も淑子さんと同じで若い頃に配偶者を亡くしていて、淑子さんと同じく子供もいなかった。ご両親は当然既に亡くなっていて、遠縁の親戚さえいない天涯孤独の人だったそうだ。そして、その男性の遺産はざっと4000万円」

「よ、よんせん……!? しかもそれって全部……」

「そういうことだ。その遺産は全て妻であった淑子さんが相続して、淑子さんは亡くなるまでにそのうち1000万円を使った。そして残された3000万円は誰のものになるかというと……」

「えーと、おばあちゃんに全部来るってこと?」


 淑子さんの両親(僕の曾祖父母)はもちろん既に故人であり、子供もいないので遺産はそのまま唯一のきょうだいである僕の祖母のものになる。


 出てきた金額とその移動の仕方がダイナミックすぎて頭が混乱してきたが、僕にも大体話が読めてきた。



「塔也君。私はしがないサラリーマンで杏子きょうこの薬学部の学費を払うので精一杯だった。吾郎さんが亡くなって君が学費のことで退学の危機に陥った時も、私たち夫婦は何も助けてあげられなかった。……だけど、今ようやく君を助けることができる」

「塔也ちゃん、遺産は葬儀費用とか相続税を除いて2000万円を杏子に贈与することにしました。これで塔也ちゃんはもう貧乏な思いをしなくて済むし、杏子も土日まで働かなくて良くなるの」

「そ、そんな……」


 祖父母から聞かされた話を僕は現実のものとは思えなかった。


 思えば2019年3月に父の生前の借金が判明してから、僕は学費3000万円の私立医大には相応ふさわしくない貧乏医学生として暮らしてきた。


 その生活が、棚からぼたもちのような形で転がり込んできた2000万円のおかげで一気に逆転するのだ。



「か、母さん……これ、ドッキリってことはないよね?」

「私だって本当に驚いたのよ! 塔也、学費はこの2000万円でお釣りが出るし今度から仕送りの額も増やすから。これからは答案添削のバイトなんてせずに勉強と研究に専念してくれればいいわ」


 正座していた母は僕の方に身を乗り出してそう言い、母もまだ興奮冷めやらぬ状態のようだった。



「私からも念押ししとくけど、この話は誰にもしちゃ駄目よ。もちろん恵理ちゃんにも話しちゃ駄目。何千万のお金は人の心を惑わせるから、少なくとも塔也が一人前のお医者さんになるまではここにいる4人だけの秘密。分かった?」

「それはもちろん。……でも母さん、仕送りの額を一気に増やしたりしなくていいよ。生活レベルは一度上げると戻すのが大変だってよく分かったから、貰えた2000万円は大事に使おう。ね?」


 2000万円から残りの学費(4年分、研究医養成コースで半額)を引いても1000万円ほど残る計算になるが、それでも大金は気にせず使ってしまえばあっという間になくなる。


 僕は今の生活にも十分慣れてきたから、仕送りは欲をかいてもあと2万円ほど増やして貰えればそれで万々歳だった。



「うん、塔也がそう言ってくれる子に育って母として安心したわ。私もドラッグストアのアルバイトは減らすけど辞めないし、レイアスも中古車で買い戻すつもり。もちろんすぐには買わないからね」

「私たち夫婦は年金で十分に暮らしていけるから、淑子さんの遺産は神様から塔也君に与えられた奇跡だと思うことにするよ。これまで本当に苦労をかけたね」

「おじいちゃん、僕は学費で困ってたのをおじいちゃんやおばあちゃんのせいだなんて思ったことないよ。……でも、お金の問題が解決して本当に嬉しい」


 この1年間で経験した様々なことが脳内を駆け巡り、僕の両目からは自然に涙が溢れてきた。


 2回生から研究医養成コースに移ったのはあくまで学費を工面するためだったが研修の日々の中で僕は様々な人々と巡り合い、その中で人間的に成長できた。



 学費減免どうこうを抜きにしても研究医養成コースを今から辞める気は全くないし、僕はこれからも病理学研究者を目指して鍛錬を重ねていくことになる。


 思わぬきっけかから飛び込んだ研究の世界だが、僕はもはや自分の運命に悩むことはない。



 未来へ続く道は突然に輝き始めたが、僕はこれからも休むことなくその道を歩み続けていくのだ。

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