277 気分は再びの帰還

 そうして毎日を学生研究に費やしていると2月は終わりに近づいていた。


 2020年2月26日、水曜日。


 あと3日で大学に行けなくなる今日この日、18時頃に下宿に帰ってきた僕はそろそろスーパーに夕食の買い出しに行こうとした。


 その時ポケットに入れていたスマホが振動し始め、着信の相手は母だった。


 靴を脱いで玄関を上がりながら電話に出る。



「もしもし、何かあったの?」

「塔也。実は今治の淑子としこおばさんが亡くなって、さっき近所の人から連絡があったの。急に仕事休めないし、おじいちゃんとおばあちゃんだけじゃ後始末が大変だから帰ってこられるなら今日中にでも帰ってきてくれない?」

「えっ、そうなの? おばさん亡くなったんだ……」


 淑子さんというのは僕の母方の祖母の姉すなわち僕の大伯母おおおばに相当する人で、50代で夫を失くしてからは現在まで今治で一人暮らしをしていた。


 おばさんは色々あって親戚内では孤立しており今治に住んでいても僕の母や祖父母とは全く交流がなかったが、僕とも面識はあるので亡くなったと聞けばショックだった。



「今月やることはほとんど終わってるし、教授と先輩に連絡してから荷物まとめるね。何泊分ぐらいでいい?」


 既に病理学教室でのバーチャルスライド取り込みは全て終わっており、紀伊教授からも論文のPDFファイルを頂いていた。


 ちゃんと連絡さえしておけば今から実家に帰っても問題ないはずで、僕は母にどれぐらいの荷物が必要かを尋ねた。



「あのね塔也、彼女ちゃんのことがあるから言いにくいんだけど、しばらくはずっと実家に泊まったら?」

「えっ?」

「4月からの授業はオンラインになるっていうし、これから都会では新型ウイルスがもっと流行り始めると思うの。今のうちなら塔也が大阪から帰ってきても何も言われないでしょうから、お母さんとしてはしばらく田舎に避難して欲しいの」

「うーん、確かに……」


 来月からは大学が休校になることが決まっており、4月から授業はオンライン実施となれば下宿に残る必要もない。


 壬生川さんとしばらく会えなくなるのは辛いがこれから新型コロナウイルスが爆発的に流行すれば彼女とデートもできなくなるだろうし、そうなってから松山に戻るのはご近所さんの風評が心配だった。



「分かった、じゃあしばらくは実家で過ごすよ。下宿を片づけてから19時半ぐらいの新幹線に乗ろうと思う」

「ありがとう。持ち合わせあんまりないでしょうからネットで新幹線と特急のチケット買っておいていい?」

「それすごく助かる。では準備します……」


 母はインターネットで事前にチケットを買っておいてくれるらしく、ATMで現金を下ろす手間が省けるので率直にありがたかった。


 それから急いで紀伊教授とヤミ子先輩、そして壬生川さんに大伯母の忌引に合わせてしばらく実家に帰ると伝え、僕は下宿の可燃ごみをまとめて収集所に出した。


 可燃ごみの収集は毎週月曜日と木曜日の朝なので管理会社には申し訳なく思いつつ、洗濯物などもすべて片づけると日常で使っているものをすべてトランクに詰め込んだ。


 着替えは実家にもいくらか置いてあるし足りなければ地元で買えばいいと割り切って、しばらくの実家暮らしで必要になりそうなものは全てトランクに押し込んだ。



 窓や玄関の施錠を念入りに確認すると、僕は肩掛けカバンとトランクを持って下宿を後にした。


 新大阪を目指してJR皆月駅から電車に乗り込み、僕は夜の皆月市から離れていった。



 僕が再び皆月の地を踏むのは今年7月のことになるが、それはこの時の僕は知るよしもない。

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