276 気分はパンデミック

 2月中旬の診断学の試験には無事合格でき、他の科目も再試がない僕は再試該当者発表のあった2月17日月曜日には晴れて自由の身となることができた。


 柳沢君はあれから残る講義には全出席し、彼も診断学の試験には合格できて今は2月末に予定されている生化学と微生物学の再試に向けて引き続き勉強に励んでいるらしい。


 ヤミ子先輩と和解できた彼は写真部にも復帰して、これからはヤミ子先輩の次の主将を目指して部活も頑張っていくという。



 医学部2回生の授業が完全終了した後も病理学教室の発展コース研修(事実上は配属1か月目の学生研究)には真面目に取り組んでいて、来月から開始する動物実験の計画書ももうすぐ完成する見込みだった。


 ヤミ子先輩の学生研究で飼育していたマウスは冬休み中にすべて飼育期限に達して安楽死させられた(腎臓の病理標本を採取された)らしく、昨年8月の基本コース研修と異なり今月は生きている動物を扱うことはなかった。



「ヤミ子先輩、そういえば来月は進級試験なんですよね?」

「そうだよ、最近は研究医生の3回生同士で勉強会やったりしてる」


 お互いマスクを着用し、僕らは顕微鏡を覗きながら学生研究員の待機室で話していた。


 新型コロナウイルスの国内での感染拡大に伴い先週からは全学生に学内でのマスク着用が義務付けられ、僕も買い置きしておいた使い捨てマスクを着けて登校していた。



「ヤッ君とマレー君には私とさっちゃんが付き合い始めたって話して、2人とも驚いてたけどお祝いしてくれたよ。大学の友達皆にカミングアウトする気は一切ないけど、研究医生同士ならいいかなって」

「そうですね、まあ僕らは剖良先輩がヤミ子先輩を好きだって前から知ってましたし」


 ヤミ子先輩は剖良先輩と恋人同士の関係をエンジョイしているようだが、元々いつも一緒に過ごしている親友同士だったので周囲からすればそれほど変化は感じられなかった。



 そこまで話していた所で、廊下に続くドアが勢いよく開く音がした。


「おいお前ら、ちょっと話がある」

「あ、教授。何かあったんですか?」


 独特なヘアスタイルの巨体にマスクを着用した紀伊教授にヤミ子先輩は不思議そうに尋ねた。


 紀伊教授はそのまま待機室内で一番大きな椅子にドスンと腰かけ、僕らに向けて話し始めた。



「さっき大学から各教室の教授に通達があって、来月1日から大学を当面の間休校にして全ての学生は原則として登校禁止になるらしい。3回生の進級試験や1・2回生の再試だけは例外的に登校させるらしいが、新型コロナの影響がそろそろ洒落にならなくなってきた」

「それって学生研究も駄目なんですか?」

「そういうことだ。学生研究はせいぜい1人か2人でやることだから何とか許可して貰えないか基礎医学教室の教授陣で大学に頼んでみたが、当面はそれも無理になる。予想はしてたが、白神にしてみれば配属2か月目で大学に来られなくなるのは痛いな」

「確かにそうですね……」


 新型コロナウイルスの感染拡大で大学が休校になるという噂は既に学内で流れていて、課外活動であるクラブ活動はオンラインで行えるものを除いてすべて中止するよう大学から命令が来ていた。


 元々飲み会や学外のイベントでしか部員同士が顔を合わせない文芸研究会にはほぼ影響がないようだが、ラグビー部員の林君や女子バスケ部員の壬生川さんは練習が一切なくなり暇になったと話していた。



「今の時代は大学に来られなくなっても研究が一切できなくなる訳じゃないから今月中に色々準備をしようと思う。具体的には白神の研究の参考になるプレパラートはバーチャルスライドとしてデータ化して、白神に読んでおいて欲しい論文はPDFで渡す。休校期間中も定期的にDoomドゥームで会議をしてその時に進捗を確認したい。不自由な思いをさせるが我慢してくれ」

「いえいえ、自宅でもできる仕事があるとこちらこそ大変助かります」


 Doomというのは新型コロナウイルスの世界的流行が始まってから注目を集めているオンライン会議サービスで、アメリカに本社を置く中国系企業が開発・運営を行っている。


 Doomはオンラインでビデオ会議ができるだけのシンプルなサービスだが競合他社のサービスと異なり操作性が非常にシンプルで、セキュリティ面に不備がある可能性が取り沙汰されているものの日を追うごとに世界中で広く用いられるようになっている。


 現在はどの学年も春休みに入りつつあるが4月からは学生を登校禁止にしつつ授業をDoomミーティングや映像講義により遠隔で実施するとの噂も流れており、僕もそろそろ自分のパソコンやタブレットにDoomをインストールしようと考えていた。



「そういう訳で、ヤミ子も今のうちにバーチャルスライド取り込みとか大学じゃないとできない作業は済ませておいてくれ。進級試験もあるのに大変だが、お前は試験勉強を言い訳に学生研究をおろそかにする人間ではないはずだ」

「もちろんですよ。じゃあ白神君、バーチャルスライドの取り込み方復習しとく?」

「ええ、お願いします」


 ヤミ子先輩はそう言うと僕をバーチャルスライド装置が置かれている会議室まで連れていき、昨年8月以来にプレパラートをバーチャルスライドに取り込む方法を教えてくれた。


 先輩と一緒に休校に備えた作業に取り組みつつ、僕は大学に来られなくなったら壬生川さんにも会いにくくなると気づいて寂しい気がした。

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