267 自由の刑に処せられて

「君みたいな人のことはな、医学用語でアセクシャルって言うんや。ア、は英語で否定の意味で、セクシャルはそのままの意味や。要するに男性にも女性にも誰に対しても性欲を抱けない人のことをアセクシャルと言う。君はまさにその典型例っちゅうわけや」

「アセクシャル……ですか?」


 その医学用語は人生で初めて聞いた文字列で、私は意味は理解しつつもそれが自分のことであるという実感が湧かなかった。



「君は男子とそういうことをするんが辛いって言うけど、女の子にときめくこともないねんやろ? 男子に付き合って欲しいって言われれば自分なりに覚悟してOKしとる訳で、少なくともレズビアンではない。あと君は他人に恋愛感情を持てへんって言うけど、恋愛感情はイコール性欲とはちゃうで。ひどいことを言ってもうた彼氏に申し訳ないと思って必死でお詫びしようと考えられるねんから、君は君なりにその後輩のことが好きなんやと思う。でもそこに性欲が介在してへんから、彼とは上手くいかんかった訳や」

「なるほど……」


 自分が柳沢君のことをどう思っているのかは私自身よく分からない感覚があったが、「性欲が一切ない恋愛感情」という先生の説明はストンとに落ちた。



「そのアセクシャルっていう病気は、どうすれば治るんですか? 何かお薬とか心理療法とかあるんですか?」

「んなもんはない。LGBTと同じで生まれもっての性質やから君はそれを治すことはできへんし、治す必要もない。ただ、これからの人生をどう生きるかは考え直さなあかんな」


 治療法を尋ねた私に鴻池先生はその考えをバッサリと切り捨てた。



「君が男子とそういうことをできへんって言うんやったら、まあ普通の男の人とは付き合えへんし結婚もできへんわな。男でも女でも身体の関係がなくてええ言う人を探すしかないけど、そんな人はごくまれや。せやったら性行為をある程度我慢できるようになるか、それともずっと一人で生きていくかやな。それは君が自分で考えることやけど、一つだけ理解しといて欲しいのは君は人をちゃんと好きになれるいうことや。人生でこの人なら信頼できる、この人となら暮らしていけるっちゅう他人が現れたらその人に身を任せてみるんもええと思うで」

「この人なら……という人ですね」


 鴻池先生は私に人生のアドバイスを投げかけ、一緒に暮らしていけるほどに信頼できる他人を見つけてその人に合わせてみてはどうかと提案した。


 そして、先生はその相手は必ず男性であるべきとは言わなかった。



「ところで、君は大学受験の社会は何選択や?」

「センター試験の社会ですか? 倫理、政治・経済選択です」

「せやったらサルトルは知っとるやろ。実存主義の哲学者サルトルは『人間は自由の刑に処せられている』と語った。人間は他の動物に比べて生き方が自由やけど、その分だけどう生きればいいかを悩むことになる。アセクシャルである君は普通の人間よりもきつい自由の刑に処せられてるんやろな」

「先生、例えがお上手ですね。じゃあ、その自由の刑から逃れるには……」

「簡単なことで、さっきも言うた通り誰かに合わせようって思えばええ。大体人と人が付き合うとか結婚するっちゅうのは我慢の連続なんやから、君も天涯孤独が嫌ならどっかで妥協はせなあかんで。その中でできるだけ妥協せんで付き合える人を選ぶっちゅうことや」

「妥協せずに、付き合える人……」


 その瞬間、私の脳内に自分がこの世で一番好きな人の顔が思い浮かんだ。


 あの人なら、あの子なら私は人生を共に歩んでいけるかも知れない。




 それからは鴻池先生にお礼を言って精神科外来を後にし、精算窓口で診療費を支払った。


 再び病院内のトイレに入って変装を解いて附属病院を出ると、私はある人に電話をかけた。



 今決断しなければ、私はこの思いに蓋をしたままになってしまう。


 だから私は今、あの子との関係を見つめ直さなければならない。

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