266 精神科外来
2020年1月27日、月曜日。
この日は午後の講義がない日で、私は学生食堂で昼食を取ると学内から直通の附属病院に入りトイレの個室で付け焼き刃の変装をした。
ぶかぶかの茶色のコートを羽織ってマスクを身に着け、母から借りたサングラスをかけた私はそのまま精神科の外来を訪れた。
「あの、すみません。医学部3回生の山井理子といいます。今日これから診て頂くことになってて……」
「ああ、特別予約の学生さんですね。どうぞ、先生がお待ちです」
1月15日に柳沢君と破局してから私は大学の保健管理室に彼とのトラブルを相談した。
全て自分の側が悪いという事実をはっきりと伝えて相談すると、女性の保健師さんは丁寧に話を聞いてくれた。
私の持っているような悩みは過去に聞いたことがあるという保健師さんは精神科の外来を受診するよう私に勧め、特別に診察の予約まで取ってくれた。
この大学では多忙な医学生や看護学生に配慮して特別な事情がある学生は保健管理室を通じて附属病院の予約を取れるようになっており、私がこの制度を使うのは入学以来初めてだった。
狭い通路にいくつもの診察室が並ぶ精神科の外来に入った私は最奥の部屋まで進んだ。
そこにはバーコードヘアで色黒な中年男性の医師が座っていて、私はこのいかつい人に身の上を相談するのかと心配になった。
「どうぞ、まあ座ってくれや。医学部3回生の山井さんやったな」
「ええ、そうです。先生、よろしくお願いします」
医師であり大学教員でもある先生に頭を下げると私は患者用の丸椅子に腰かけた。
変装用のコートを脱いでサングラスとマスクも外し、顔を見せて先生と向かい合う。
この先生は精神科教室の准教授である
鴻池先生はいかつい身なりだが性医学と呼ばれる学問の専門家で、近畿圏では最も有名な性医学者の一人だった。
性医学とはヒトの性にまつわるあらゆる問題を扱う医学であり、いわゆるLGBTを含む性的少数者の人々を主な診療対象にしている。
ゲイ(G)やレズビアン(L)である自分に悩む人々に自らの性的指向を受け入れた上でのより良い生き方を提案したり、トランスジェンダー(T)の一種である性同一性障害(正式には性別違和と呼ばれる)の人々に性適合手術や性別変更のための手続きを仲介したりと近年では性医学を専門とする精神科医の重要性が高まっており、鴻池先生は近畿圏内から集まる性的少数者の人々の診療に奮闘していた。
この時点まで私は自分がなぜ鴻池先生の外来を案内されたのか分かっておらず、若干戸惑いながら先生の言葉を待っていた。
「大まかな話は保健管理室から聞いとるけど、とりあえず今一番困ってることを話してくれるか?」
「分かりました。実は、私……」
精神科医らしい質問の切り出し方をした先生に、私は高校生の頃の話や柳沢君とのトラブルのことを織り交ぜつつ自分の抱えている悩みを説明した。
「……そういう訳で私、自分はヒトとしておかしいんじゃないかって思うんです。男の人とそういうことをするのにものすごく抵抗があって、だからといって女性とそういうことをしたいとも全然思わないんです。他人に恋愛感情を持てないなんて、どうかしてるとしか思えなくて」
「なるほどな。……ああ、分かった。典型的なやつや」
かなり特殊な相談をしたつもりの私に鴻池先生は全てを理解した表情でそう言った。
「典型的……なんですか?」
「その通り。性医学の専門家やったら絶対知っとる話やけど、まあ君ら医学生は知らんくてもしょうがないわ。LGBTに比べると症例としては少ないから俺も授業では教えとらんしな。耳かっぽじって聞いときや」
腕を組んで話した先生に、私は丸椅子の上で身構えた。
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