187 気分は僧侶見習い

 普段は医学部1回生の講義室となっている第一講堂に基礎医学教室の関係者が集結し、最前列の机の中央ではマレー先輩の異母弟である生人いくひと君が読経を行っている。


 なめらかな口調でテンポ良くお経を読んでいく生人君は僧侶見習いの社会学部2回生でありながら既にプロの風格をまとっており、彼の読経どっきょうを文字起こししてみたいほどだが僕の知識では「なむあみだぶつ」という部分しか聞き取れなかった。


 高校日本史の授業では浄土真宗という宗派は「絶対他力」の思想のもとに念仏を唱えることすら否定したと習ったが、日本の仏教はどの宗派も黎明期れいめいきから現代に至るにつれて教義が少しずつ変化してきたので「浄土真宗のお坊さんが葬式でお経を読む」ということは現代日本では特におかしなことではないのだろう。



 2019年10月19日、土曜日。時刻は昼の11時20分頃。


 この日は11時から実験動物慰霊祭が開催されており、今は浄土真宗の僧侶見習いである生人君が近くの席に座っているお父さんの監督を受けて読経を行っていた。


 生人君は異母兄であるマレー先輩の私生活(主に美波さんとのあれこれ)を僕が助けてくれたと思っているそうで、僕に一言挨拶したいとまで考えてくれているとはマレー先輩から聞いていた。


 実験動物慰霊祭の前に会えればと思っていたが生人君が第一講堂に入室してきたのは慰霊祭が始まって生理学教室の天地あまち教授と薬理学教室の本地ほんじ教授が式辞を述べた後で、生人君は入室してそのまま読経に移ったので今のところは彼の姿を見ただけだった。



 入室時に一瞬見えた僧衣姿の生人君は標準的な体型に大変凛々しい顔をしていて、失礼ながらいわゆるフツメンに-αぐらいのルックスであるマレー先輩と比べると十分以上にイケメンな男子大学生だと思った。


 彼はその特長をあっさり忘れさせる外見的特徴も備えており、大学卒業後はすぐに実家で住職として働く身なので当たり前と言えば当たり前なのだが彼の頭には見事なまでに毛髪が皆無だった。


 凛々しい顔のせいもあって彼の輝かしい頭にはまばゆいばかりの迫力があり、まだ合コンにも行きたい年頃のはずなのに頭髪を毛根も残らないほどりきっている姿にはプロフェッショナル意識の高さが感じられた。



 生人君は巻物のような経文きょうもんを開きながら流暢にお経を読んでいき、素人の僕にはお経の文章も意味も分からないが動物実験で犠牲となったマウスやラットなどの実験動物たちの魂をとむらう意味があるのは間違いない。


 生人君の読経の上手さや外見に驚くのはそこそこにして、僕は8月の病理学基本コース研修で解剖したマウスたちのことを思い出しながら読経に耳を傾けていた。



「……皆様、本日は読経をご清聴頂き誠にありがとうございます。功報寺こうほうじ住職の私、物部もののべ細人ささひとからも実験動物たちの尊い犠牲に弔いの意を念じさせて頂きます。また、本日は功報寺次期住職の研修にご協力を頂き重ねてご感謝を申し上げます。それでは参列者の皆様にはご焼香しょうこうをお願いします」


 生人君の読経が終わると近くに座っていた生人君(とマレー先輩)のお父さんは立ち上がって挨拶を述べ、焼香の合図があると講堂前方に座っていた基礎医学教室の先生方は素早く立ち上がった。


 慰霊祭には何度も参列しているらしい先生方のご焼香を列に並んで眺め、僕も見よう見まねで焼香を済ませた。


 そのまま席に戻ると各教室の教授を除く式典の参列者は第一講堂を出るよう指示を受け、僕は荷物を持って講義室内後方の扉へと歩いた。



「お疲れー、白神君」

「あっ、お疲れ様ですヤッ君先輩」


 第一講堂を出て講堂前のロビーに行くとそこには研究医養成コース合宿以来久々に研究医生が集合しており、僕はロビーの長椅子に腰かけながら手を振ってきたヤッ君先輩のもとへと歩いた。


 長椅子のそばではヤミ子先輩と剖良先輩が立ち話をしていて、少し離れた所では壬生川さんとカナやんがタブレット端末を見ながら何かの打ち合わせをしていた。


「白神君、初めての慰霊祭はどう? 感想って言っても難しいかも知れないけど」

「お経の意味は分かりませんでしたけど、色んな教室から先生が集まっていて皆さん実験動物の魂を心から弔われているんだなあと思いました。ヤミ子先輩からお話を聞いておいてよかったです」


 僕の方を向いて尋ねたヤミ子先輩に感想とお礼を言うと先輩はどういたしまして、と答えてにっこりと笑った。


 ここにいる学生全員が同じ条件だが今日のヤミ子先輩は初めて見るスーツ姿で、短めのスカートからのぞく生の両脚は例によってセクシーだと思った。


 ヤミ子先輩の綺麗な脚をじろじろ見ているとご本人はともかく剖良先輩に怒られそうなので慌てて視線をそらす。



「でも、さっちゃんも白神君にはちゃんと教えてあげないと駄目だよ? 最近忙しいみたいだから忘れちゃってたのは仕方ないけど」

「……うん。塔也君、今回は慰霊祭の日程を教えてあげられなくて本当にごめんね。私自身も慰霊祭があるのを忘れてて」


 自分が精神的に不安定になっている原因であるヤミ子先輩本人から不手際をとがめられ、剖良先輩は複雑な表情を浮かべて僕に頭を下げた。


「いえ、こうしてちゃんと参列できた訳ですから何も問題ないですよ。先輩方はこれからどこか行かれるんですか?」

「そうそう、土曜日に皆で集まる機会なんて普段はないから3回生4人で久々にカラオケに行くんだよ」


 もしやと思って聞いてみるとヤッ君先輩は嬉しそうにこれからカラオケに行くことを教えてくれた。


 ヤミ子先輩・剖良先輩・ヤッ君先輩・マレー先輩の3回生4名はそれぞれ所属教室や部活が違っても非常に仲が良く、こういう機会に遊びに行ける間柄なのは美しい友情だと思った。



「それはいいですね。ぜひ楽しんできてください」

「あーら、だったら今日はあんたは一人ね。ちょっとかわいそうかもだけど」


 後方から話しかけてきたのは慰霊祭だけあってかケの日モードの壬生川さんで、隣には僕に話しかけにくそうな様子のカナやんが立っていた。


 壬生川さんの豊かなバストはスーツ姿でも主張が激しく、僕はやはりじろじろ見てしまわないよう視線をそらした。


「一人って?」

「私もカナちゃんとこれから梅田にお買い物に行ってついでに映画も見てくるから。こんな機会中々ないしね」

「そうなんだ。女の子同士で楽しそうだね」


 壬生川さんとカナやんは1回生の頃から仲良しと聞きつつその様子は目にしたことがなかったが、彼女らもこういう機会に遊びに行ける間柄だったらしい。



「白神君も来る? 映画は見れへんけど買い物だけやったら」

「何言ってるのカナちゃん! 男1人引き連れてガールズトークもショッピングもできる訳ないし私は絶対に嫌だからね。分かった?」

「は、はい……」


 壬生川さんに気を遣ってか僕を遊びに誘ってくれたカナやんに壬生川さんはとんでもないとばかりに彼女の提案を打ち消した。


 その剣幕にカナやんも敬語になっていたが、実際問題それは気まずすぎるのでやめた方がいいと思った。

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