154 気分は大仰天

 紀伊教授にしばしのお別れを告げて教授室を出ると僕とヤミ子先輩は一旦学生研究員室に戻り、お互い丸椅子に着席して一息ついた。


「白神君、今月は本当にお疲れ様ー。紀伊先生はやってるふりだけして成果を出さない学生には鬼のように厳しいから、あんなに褒められたのは本当にすごいよ?」

「いえいえ、ヤミ子先輩が助けてくださったおかげですよ。あと紀伊先生には言いませんでしたけど、今のところは病理学教室に一番興味があるんです」

「えっ、それって3回生からこの教室に所属したいってこと?」


 嬉しそうに聞くヤミ子先輩に僕は笑顔で頷いた。


「元々顕微鏡を使う教室に興味があったんですけど、解剖学と微生物学と病理学の3つではやっぱり病理学が一番臨床医学に近くて面白そうだなと思うんです。もちろん決めるのは他の教室をちゃんと見てからですけど」

「うん、他の教室もぜひ体験してきて欲しいけど私は白神君が教室でも後輩になってくれたら嬉しいよ。こんなに真面目で人のいい後輩なら大歓迎!」


 そう言うとヤミ子先輩は丸椅子ごと身を乗り出してきて、両手を僕の膝に置いた。


 先輩の綺麗な顔が急接近し下半身に両手のぬくもりが伝わってきて、例によってドキドキさせられてしまう。


 といっても僕のヤミ子先輩へのデレデレした態度は純粋な愛情でも何でもないということはとある人に叱られてようやく理解できたので、あくまでポーカーフェイスを装わねばならない。


 もちろん現時点で病理学教室に一番興味があるというのはヤミ子先輩が優秀で頼れる憧れの先輩であるということも大きな理由なのだが。



 ほんの一瞬でそこまで思案しているとヤミ子先輩のポケットにあるスマホが振動し始め、先輩はちょっとごめんねと言って電話に出た。


「……あっお疲れ。今日この後? 空いてるけどどこか行くの? へー、大学まで来てるんだ。じゃあ図書館棟の前で待ち合わせよっか。うん、よろしくねー」


 先輩の話し方からすると友達のようだが剖良先輩に対する口調とは微妙に違っているように思われた。


「お友達ですか?」


 何気なく聞くと、



「いや、彼氏。ちょっと前から付き合い始めたの。2回生の柳沢やなざわ君って知ってる?」

「へあっ!?」


 これまでの人生で最も変な声が出た。



「柳沢君って、あの柳沢君ですよね!?」

「どの柳沢君っていうか前に弓道部に入ってた子で、私とは元々写真部仲間だったの。2週間ぐらい前に付き合ってくださいって頼まれて、彼氏もいないしOKしちゃった」

「へー、そうなんですね……」


 剖良先輩目当てで弓道部に入り今年3月に弓道場の裏で告白したらこっぴどく振られてそのまま弓道部を辞めてしまった柳沢君は、そのたった5か月後にヤミ子先輩をあっさりゲットしていた。


 一度は剖良先輩に告白しつつ彼女の思い人を横からかっさらった彼を剖良先輩がどう思うのかは気にかかるし、1週間前の僕なら彼に殺意を覚えていた所だろう。


 とはいえ今の僕はヤミ子先輩が柳沢君と上手く付き合っていけるようにと願うばかりである。



「今日はこれから大学で合流して、一緒に梅田に行こうって。もうすぐ来るらしいから私もそろそろおいとまするね」

「分かりました、ぜひ楽しんできてください」


 カバンを持って席を立ったヤミ子先輩の背中を見送りつつ、僕はこれから帰宅後にすべきことを改めて脳裏に思い描いていた。

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