153 気分は一段落
2019年8月23日、金曜日。時刻は夕方16時半。
8月初頭から始まった病理学教室の基本コース研修もそろそろ終わりに近づいており、今月の研修で僕が学ぶべきことも大方は片づいていた。
発癌性の薬剤を投与されて飼育されたマウスと同量の生理食塩水を投与されて飼育されたマウスをそれぞれ解剖し、得られた腎臓と膵臓の標本をホルマリンで固定してパラフィン包埋切片を作製する。
腎臓の標本はヤミ子先輩の研究に用いられ、膵臓の標本は僕の研究材料として与えられていた。
ヤミ子先輩に指導を受けつつマウス膵臓の切片にHE染色や抗インスリン染色などの各種の染色を行い、完成したプレパラートは適宜顕微鏡で観察しつつバーチャルスライドのデータとして取り込んでパソコンのソフトでも観察を行う。
今時は顕微鏡がなくてもパソコンにインストールされたソフトでプレパラートを観察できるようになっていて、僕も専用ディスクを借りて自分のノートパソコンにバーチャルスライド観察ソフトをインストールさせて貰っていた。
顕微鏡での観察と異なり事前にプレパラートをバーチャルスライドとして取り込む手間はあるものの自宅でも標本を観察できるのは大変便利で、ヤミ子先輩によるとこれからの時代は病理医もあまり顕微鏡を使わなくなるかも知れないという。
といってもバーチャルスライドでの観察を正確に行うにはまず顕微鏡でまともにプレパラートを観察できるようになる必要があるため、全てがパソコンで済ませられるようにはならないだろうとのことだった。
「ほう、これをお前が自力で書いたとは信じがたいが3週間ちょっとでここまでの成果報告ができるなら大したもんだ。褒めてつかわそう」
「は、はあ……」
それはそれとして基本コース研修の最終週を控えた今日この日、僕はヤミ子先輩と共に病理学教室の教授室を訪れていた。
紀伊教授に提出したのはマウスの膵臓を研究対象としたレポートで、発癌性の薬剤を投与されたマウス(実験群)と同量の生理食塩水を投与されたマウス(コントロール群)とで膵臓のランゲルハンス島へのダメージに有意差があるかどうかを調べたものだった。
ヒトにも存在する膵臓ランゲルハンス島(膵島)は血糖降下作用を持つインスリンや血糖上昇作用を持つグルカゴンなど各種のホルモンが分泌される部位であり、発癌物質を投与されたマウスではランゲルハンス島にも毒性の影響が及んでいるという仮説のもとに研究を進めた。
実験群のマウスの方が数値上はランゲルハンス島の構成細胞にアポトーシスが多く生じていたが結局は有意差はなく、薬理学教室でヤッ君先輩に教わった統計の知識を活かしてレポートでは統計ソフトを用いたデータ処理の結果も示していた。
生化学教室と微生物学教室で教わった科学的リテラシーや論理的思考はレポートの文章を考える上で大いに参考になり、免疫染色の手技にしても解剖学教室で剖良先輩からみっちり教わっていたおかげでヤミ子先輩にはあまり苦労をかけずに済んだ。
どういう観点からデータを出したいかを考える行程では生理学教室での実験テーマ探しの経験が役に立ち、今回のレポートはあまり面白い結果こそ示せていないものの今年3月から現在までの基本コース研修の集大成とも呼べるものに仕上がっていた。
「それじゃあご褒美に今から嬉しい発表をしてやろう。病理学教室の基本コース研修は俺の判断で今日をもって終わりとする。残りたった1週間しかないが久々に研修のない休みを満喫してくれ」
「えっ、それはありがたいですけど本当にいいんですか?」
紀伊教授に臨時休暇を与えられ、僕は突然の展開に驚いた。
「白神君、紀伊先生のポリシーは成果主義で、どれだけ時間をかけたかじゃなくてどれだけの成果を挙げたかで人を判断するの。せっかくだから言っちゃうけど、もし白神君が8月末までに研究成果をまとめられなかったら9月からも呼び出して研究を続けさせるつもりだったんだよ」
「ああ、なるほど……」
紀伊教授がただ単に学生を甘やかすはずがないと思っていたが、ヤミ子先輩の説明によると案の定だった。
「お前はこれから当分ここに来なくていいから今のうちに来月からの話をしておこう。つまるところ来月から各教室の発展コース研修が始まる訳だが、これまでと違って発展コースではどの教室でも特に決まったテーマを与えることはしない。その代わりに指導担当の学生の研究を全面的に手伝って、その教室が実際どういう世界なのかをその身で味わうんだ。ぶっちゃけて言えば先生方も忙しいから今後の指導は研究医生に丸投げしたいということだ。6か月の間に最終的に自分が進みたい教室を決めて、来年3月の中旬までには結論を出してくれ。いいな?」
「ええ、今の時点でどれだけ実際の研究に付いていけるか分かりませんけど、ともかく全力で臨んできます」
基本コース研修では医学研究の基礎的スキルを学びつつもそれぞれの研究分野について深く立ち入って学ぶことはなかった。
あくまでその教室の研究医生を手伝うという形だが、できる限りその教室のリアルに触れてこようと心に決めた。
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