147 気分はハリケーン
夏休み中のある朝、久々にゆっくり寝ているとワンルームの下宿のチャイムが鳴った。
半ば寝ぼけたままインターホンを取る。
「はい、白神です」
「おはよう、塔也君。3回生の
「はいっ!?」
解剖学教室所属の研究医養成コース生であり昨月にオープンキャンパスでお会いして以来の剖良先輩が、突然僕の下宿を訪ねてきたのである。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、部屋入ってもいい?」
「いや別にいいですけど……じゃあロック開けますね」
3階にある部屋から1階エントランスのオートロックを解除すると僕はインターホンを戻した。
僕に聞きたいことがあるなら普通はまずメッセージアプリで連絡が来そうだしそもそも親しい間柄とはいえアポなしで朝から訪ねてくる時点で色々とおかしいのだが、まだ十分覚醒していない僕はそういう冷静な判断ができる状態ではなかった。
誰から聞いたのかは分からないが、エントランスから僕の部屋のインターホンを鳴らせている時点で剖良先輩は部屋番号を知っていることになる。
とすると彼女は間もなく玄関までやって来るので、僕は机の下にあるごみ箱を持ち上げて収納に放り込むと1本だけ常備している消臭スプレーを室内にくまなく散布した。
部屋は普段から整理してあるしごみ出しや掃き掃除もちゃんとしているが、男の一人暮らしで生じる臭いだけは自分では気づけないのでお客さんが訪れる際には必ず消臭スプレーを
突貫工事で女の子を招き入れる準備をすると、すぐに再びチャイムが鳴った。
「おはようございます、剖良先輩……」
挨拶しつつ玄関のドアを開けるとそこには明らかに不機嫌な様子の先輩が立っていた。
「突然来てごめん。部屋番号はマレー君に聞いた」
「は、はあ……」
微生物学教室の研究医生にして文芸研究会の先輩である
「じゃあ部屋入っていい?」
「ええ、どうぞ。狭くて申し訳ないです」
剖良先輩は何故か非常に
来客用の折り畳み式パイプ椅子を収納から取り出し、僕と剖良先輩は狭い部屋の中でお互い椅子に座ったまま向かい合う形になった。
男一人の下宿に入るのは初めてなのか、先輩は物珍しそうに室内をきょろきょろ見回してから話し始めた。
「今日は本当に朝からごめんね。どうしても塔也君に直接確かめたいことがあって、早い時間帯なら出かけてないと思って来たの」
「なるほど。それで、ご用件というのは……?」
早く本題を聞きたいと思って促すと、
「塔也君、ヤミ子に変なことしたでしょ?」
「ふぁっ!?」
驚くべき質問が飛んできた。
「変なことって、それ、どういうことですか!?」
「あ、ごめん。そういう系の話じゃなくて塔也君がヤミ子と付き合ってるんじゃないかって噂を聞いて、まさか本当じゃないよねって驚いたの」
「ですよね。僕の方こそ驚きましたよ……」
ヤミ子先輩には性的な意味でドキドキさせられがちだが、少なくとも僕の方から手を出したことは一度もないので先ほどの剖良先輩の質問には心臓が止まりそうになった。
「それで結局、塔也君はヤミ子と付き合ってるの? ヤミ子から付き合ってって言われたの?」
「はっきり言いますけど僕はヤミ子先輩と付き合ってないですし、まだそういう雰囲気にすらなってないですよ。そこは安心してくださ」
「まだ!? まだってことは塔也君はヤミ子に手を出したいってこと!?」
「すみません言葉の
先ほどから全体的に会話が迷走しており、とりあえず剖良先輩に落ち着いて話を聞いて貰うことにした。
「僕から答えられるのはそこまでなんですけど、その噂ってどこから聞いたんですか?」
「夏休みに入ったから遊びに行こうってヤミ子に言ったら用事があるからって2回も断られたの。学生研究で塔也君を指導してるっていうからその件だと思ったんだけど、やっぱり気になって友達から情報を集めてみたらヤミ子が後輩の男子と駅前でイチャイチャしてるのを目撃した人が何人もいるらしくて。塔也君とは言われてなかったけど、もしかしたらと思ってここまで来たの」
「ええ……」
僕はもはや慣れているが、女友達が遊びの誘いを2回断っただけで友達ネットワークから理由を探ろうとするのも中々な執念である。
「イチャイチャしてるっていうのは嘘ですけど、ヤミ子先輩に近場のお店でおごって貰ったことは何度かあるのでその時の目撃情報じゃないですか? 先輩はとてもお優しいので僕もちょっとデレデレしてたかも知れませんし」
「そういうことね。まあヤミ子は最高に魅力的な女の子だから塔也君でもそうなっちゃうかな。とりあえず事情を聞けて安心した」
剖良先輩はそう話すと朝方で眠いのかパイプ椅子に座ったまま軽く伸びをした。
先輩はメッセージアプリで済ませられそうな用事のために神戸市の実家からわざわざここまで来た訳で、夏休み中に早起きする気力はすごいと思った。
「せっかくだから教えて欲しいんだけど、最近ヤミ子はどんな感じ? 塔也君的にヤミ子のことはどう思う?」
夏休み中は付きっきりで僕を指導してくれているせいもあって最近あまり遊べていないのか、剖良先輩は僕からヤミ子先輩の様子を探ろうとしているらしい。
話題にヤミ子先輩が絡んでいるからか、普段はクールビューティーな剖良先輩は先ほどからやたらとテンションが高くて正直しんどい。
「えーと、普段のヤミ子先輩はよく知らないですけど僕の指導をしてくださっていてもご自身の研究はちゃんと進められていて、毎日活き活きされてますね。僕から見てもヤミ子先輩は尊敬できる所ばかりで、同じ研究医生として憧れますね」
「あくまで仕事の先輩としての憧れってことよね?」
「え、ええ、そういうことです」
この状況でヤミ子先輩に女性としての魅力を感じているなどとはとても言えないので、僕は冷静を装ってそう答えた。
「とりあえず安心できたから今日はこれで帰るね。再来月は解剖学教室の発展コース研修だから久々に一緒になるけどよろしく」
剖良先輩は早口でそう言うと席を立ち、そのまま玄関へと歩いていった。
「どうも、お疲れ様でした……」
自分で玄関の鍵を開けてそのまま去ろうとした先輩に声をかけると、
「塔也君、私は君のことを友達だと思ってるし後輩として信用してるけど、ヤミ子に手を出したら絶交するからね」
先輩はこちらに向かって首を向け、冷徹な表情でそう告げた。
「分かりました。今後とも気を付けます……」
「ありがとう。それじゃ、また大学で会いましょう」
剖良先輩はそう言うと玄関から出ていき、僕はドアが閉まるとすぐさま鍵をかけた。
ハリケーンのように襲来して去っていった剖良先輩に僕は朝からひどく疲労させられ、そのままベッドに倒れ込んで二度寝してしまった。
この日は珍しく午後まで何もない日だったが、もし朝から免疫染色などの予定が入っていたら死にかけていただろう。
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