148 気分はクリティカル
ややこしい一件がありつつも病理学教室の基本コース研修は続き、気づけば既に夏休みは後半に突入していた。
2019年8月18日、日曜日。
病理学教室でのハードな研修の毎日といってもこの日は流石に休みであり、久々に下宿でのんびり休もうと思っていたらその数日前に
夏休み中に何だろうと思って文面を見ると用件は単に遊びの誘いで、久々に2人でカラオケに行かないかというだけだった。
少し前に林君と下宿生同士で行った所なのでそれほどカラオケ欲はなかったが断る理由もないので僕も行きたいですと返信し、当日である今日は朝の9時50分に下宿を出た。
壬生川さんは開店時刻である朝10時から部屋を5時間パックで予約してくれていて、いつもの店舗であるジャッカル皆月2号店に入るとそこでは何故かハレの日モードの壬生川さんが僕を待っていた。
「おはよう、白神君。久しぶりだけど元気だった?」
「そんなに久しぶりかな? いやまあ、元気だったよ」
「相変わらず空気読めないわね……。それはそれとして、今日はちょっと大事な話があるから。とりあえず歌ってからゆっくり話しましょ」
「OKOK、楽しみにしとくね」
壬生川さんは意外とオーバーな表現をしない人なので彼女が「大事な話」と言ったからには実際大事な話なのだが、ハードな研修で疲れている僕はその言葉をあっさり流してしまっていた。
それから2時間ほどいつも通り交代で歌ってから僕と壬生川さんは例によって格安のランチセットを注文し、お互い昼食を口にしながら会話に興じていた。
「……それで、いきなり剖良先輩が下宿に来て大変だったんだよ。緊張した割にスマホで話せば済むような内容だったから拍子抜けしたけど」
「ふーん、で、美人の先輩が下宿に来てくれて嬉しかったって訳?」
「いや別にそういう意味じゃないよ。というよりヤミ子先輩の話を根掘り葉掘り聞かれて驚いたかな」
剖良先輩が朝から訪ねてきた日のことを話すと、壬生川さんはつまらなそうな表情でなるほどねと呟いた。
「ところで」
「そういえばさ」
親しい人と話しているとありがちなことだが壬生川さんが話を切り出したタイミングが僕と被ってしまい、僕は慌ててどうぞ、と譲った。
「あ、別にいいのよ。大事な話だから、そっちからまず話して」
壬生川さんはこの時点でちゃんと前置きをしてくれていたのだが、例によって疲れている僕はそのサインに気づかなかった。
「ありがとう。この前、ヤミ子先輩と実験してる時に……」
実験室で一緒に免疫染色をした時にヤミ子先輩がやっていた面白い習慣について話そうとした瞬間。
壬生川さんは無言でカラオケの部屋のソファを立ち上がり、僕をきっと
「……どうしたの?」
ほとんど何も話していない段階で席を立たれ、驚いて尋ねると、
「あんたね、さっきから無神経にも程があるわよ」
壬生川さんは低い声でそう言った。
「え?」
「さっきからヤミ子先輩ヤミ子先輩ってその話ばっかりじゃない。そんなにヤミ子先輩が好きなら私なんかと遊んでないで、ヤミ子先輩とデートすればいいじゃない!」
彼女はそう言うとぶわっと両目から涙を流し、そのままソファに座り込んでしくしくと泣き始めた。
ここに至った流れがまったく理解できず、僕は慌てて口を開く。
「いや、ちょっと、泣くことないんじゃない? 別に僕はヤミ子先輩がどうとかいうつもりは……」
「女の子が夏休みに2人きりでカラオケに誘ったんだからそのぐらい察しなさいよ。ヤミ子先輩が気になっててもあんたの勝手だけど、私の前で先輩の話ばっかりすることないでしょ?」
涙声で訴える壬生川さんを見て、僕は自分がまた地雷を踏んだことを理解した。
「あのねえ」
壬生川さんは涙目のまま再び僕を睨みつけると、
「私は今日この場であんたに付き合ってって言おうとしたのに、あんたがそんな態度じゃ恋人になるなんて絶対に無理。だって、あんたにとっては私もただの女友達なんでしょ?」
クリティカルな質問を投げつけた。
ここに至っては僕も曖昧な態度に出ることはできず、かといって適当な返事で済ませられる状況でもなかった。
「そんなことないよ。僕は、壬生川さんみたいな女の子は大好きだよ」
「また『みたいな』って言った! もう嫌!」
壬生川さんは怒りに任せて叫ぶとソファから立ち上がって向かい側の座席にいる僕の正面に回り込み、
「私と付き合いたいかどうか、はっきり教えて」
低い声でそう言って、両手で僕の両肩をつかんだ。
顔を真っ赤にして涙目になった壬生川さんの顔を真正面に捉え、僕は自分が修羅場にいることを理解した。
自分自身が修羅場に巻き込まれる状況には本当に慣れていないので、現実逃避的に壬生川さんの豊かな胸に視線を集中させつつ10秒ほど沈黙していると、
「うぐっ!」
「……バカ! もう知らないから!!」
当たり前のように左の頬を平手打ちされ、壬生川さんはそのままバッグを手に取って部屋を出ていった。
彼女に叩かれるのはこれで2回目だなあと思いつつ、僕はそのままソファに倒れ込んで意気消沈していた。
ここしばらく女難の相が出ている気がする。
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