136 気分は動物愛護団体

 2人で肩を並べて顕微鏡を覗いていると、実験室に直結の出入り口から巨大な影がぬっと出てきた。


「おうお前ら、今日も仲良くやってるな。勉強は捗ってるか」

「もちろんですー。先生、何かご用ですか?」


 病理医特有のスーツ姿とちょんまげを解いた侍を彷彿とさせる髪型が特徴的な巨漢は例によって病理学教室の紀伊教授であり、ヤミ子先輩は慣れた調子で返事をした。


「そろそろ12時だからたまには昼飯でもおごってやろうかと思ってな。お前ら学生は普段行けないステーキ屋に連れて行ってやろうと思うんだが、どうだ?」

「僕はぜひお願いしたいですが、ヤミ子先輩はどうですか?」


 僕もヤミ子先輩もマウスの解剖をやっているから肉料理が食べられなくなるタイプではないが、先輩がステーキという気分ではない可能性もあった。


「私もすごく食べたい。先生、ぜひよろしくお願いします!」

「いーい返事だ。じゃあ12時半になったら俺の部屋まで来てくれ。荷物はこの部屋に置いといてくれていいぞ」

「分かりました!」


 僕からそう返事すると、紀伊教授は笑顔で教授室へと戻っていった。



 それから顕微鏡観察の練習は一旦切り上げ、僕らは12時半に教授室を訪ねた。


 そのまま紀伊教授に連れられて大学を出てキャンパスから割と離れた所にあるというステーキ店を目指す。


「今日行く所は昼から高級なステーキが食えるナイスな店だ。俺は健康のため脂っこいものは夕食じゃなくて昼飯にする性質たちだから、ああいう店は重宝してる」

「なるほど……」


 カロリーの高いものは昼食にした方が健康によいという趣旨だろうが、それにしては紀伊教授は結構太っているように思われた。


 病院勤務医や開業医などの臨床医とは異なり病理医の仕事の大半は椅子に座って行うらしいので、ヤミ子先輩には病理医になってもこういう体型にはならないで欲しいと率直に思った。


「そんなこと言って、先生って飲み会の会場はいっつも串カツ屋にするじゃないですかー。気を付けないと心筋梗塞で死にますよ?」

「全くヤミ子の言う通りだな。お前らぐらいの体型なら問題ないが実際病理医は生活習慣病で死にがちだから、働き出してからも運動はしといた方がいいぞ。俺はしないけどな!」

「は、はははは……」


 紀伊教授の割り切りのよさにはある意味好感が持てるが、開き直り過ぎるのも問題だと思った。



 そのまま3人で歩き、JR皆月駅まで来た所で僕らは駅前の通りで何やら演説をしている人とチラシを配っている人々に気づいた。


「……今の日本では人々が動物たちの権利にあまりにも無関心です! 飼い主のいない犬や猫は次々に殺処分され、罪のないイルカやクジラ、クマが当たり前のように狩猟されています! このような種差別に対して私たちは改めて動物愛護の重要性を訴えます! 皆さん、私たちの活動にどうかご支援を!!」


 いわゆる動物愛護団体と呼ばれる人々らしく、組み立て式のステージの上で演説している女性が唱える文言にはどれも聞き覚えがあった。


 チラシを配っている人を上手くスルーする方法を考えていると紀伊教授が突然速足で前方に歩き、僕らの方を向いてニヤリと笑った。


「ちょっといじめてくるから、そこで待っててくれ」

「へっ?」


 意味が分からずヤミ子先輩の方を見ると先輩は笑顔を浮かべ、交通の邪魔にならないよう僕の手を引いて道の端へと移動した。


「面白いから見とくといいよ。病理医の真髄」

「わ、分かりました……」


 これから何が起きるのか分からないがともかく待っているしかない。



 チラシを配っている若い男性に対し、紀伊教授は早歩きで近寄ると話しかけた。


「いやー、どうもどうも。やはり動物愛護の理念は素晴らしいですねえ」

「あっこんにちは。あなたも私たちの活動に賛同して頂けるのですか?」


 こういう活動家の人々は街頭でチラシを配ってもたいていスルーされるからか、その男性の表情は明るかった。


「もちろんです。私自身も種差別がまかり通る日本の現状には頭を抱えておりますからね。ところで動物愛護を訴えておられるからには、日本国内における愛護動物の定義はご存じですよね?」

「ええ。犬、猫、ウサギ、ハト、アヒル、ニワトリ、牛、馬、豚、羊、ヤギと人が飼育している哺乳類、鳥類、爬虫類が愛護動物です」


 愛護動物という用語にはあまり聞き覚えがなかったが、動物愛護団体の男性はそれに属する動物の種をすべて暗記していた。


「流石です。ただ、愛護動物の定義にはイルカやクジラ、クマが含まれていませんがこれはどう思われますか?」


 紀伊教授の質問に、


「全く嘆かわしい問題だと思います。日本国内では愛護動物の対象が狭すぎて、これでは動物たちの権利を守ることができません。私たちの活動の目的には愛護動物の対象を広げることも当然含まれております」


 男性は胸を張って自らの所属する団体の目標について述べた。



 そこまで会話した所で、紀伊教授は満面の笑みを浮かべると再び口を開いた。


「なるほど、私も愛護動物の対象を広げていこうという姿勢には全面的に賛成致します。そこで一つ提案させて頂きたいのですが、現在日本国内ではゴキブリや蚊、ハエ、スズメバチといった昆虫たちの権利がないがしろにされています。このような種差別を防ぐため、愛護動物にこれらの節足動物を含めるよう訴えて頂けませんでしょうか」

「えっ……?」


 虚を突かれた男性に、紀伊教授は続ける。


「犬や猫の殺処分や牛、豚、ニワトリなどの屠殺とさつは確かに残酷ですが、ゴキブリを設置式の毒薬で殺戮さつりくしたり蚊やハエを散布型の毒薬で殺したりスズメバチを巣ごとまとめて虐殺したりするのはもっと残酷だと思うのです。殺虫剤がその辺のスーパーで売られていること自体が節足動物である昆虫たちに対する種差別ですし、昆虫たちを愛護動物に含めると同時に殺虫剤の販売を禁止するよう訴えてください」

「い、いや、それはちょっと……」

「なぜですか? 犬や猫やイルカやクジラは殺してはいけないのに、節足動物の一種である昆虫は殺虫剤で虐殺してよいというのは種差別に他ならないのではないでしょうか?」


 紀伊教授はそれからも硬直したままの男性にクリティカルな質問を投げつけ続け、ある程度相手を困らせた所でやはり満面の笑みで僕らのもとに帰ってきた。



「な? 面白かっただろ?」

「ええ、まあ…………」


 後になって考えると、確かにこういう姿勢こそが病理医の真髄だった。

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