135 気分は役得

 2019年8月7日、水曜日。


 今月は1か月を通して病理学教室の基本コース研修を受けることになっており、先週から早速マウスを用いた動物実験に参加していた。


 実験動物センターでマウスに生理食塩水を注射したり標本作製のためにマウスを解剖したりといった作業には僕自身も取り組んでいて、今週からは安楽死させたマウスの腹部を切り開いていく段階から任せて貰えるようになっていた。


 僕はマウスの解剖自体には恐怖感も嫌悪感もないが1度に10匹ほどのマウスを次々に解剖していくのは非常に緊張する作業であり、腎臓や膵臓に傷をつけてしまうとヤミ子先輩の研究にも迷惑がかかる。


 解剖を終えて実験動物センターを出る頃にはいつもヘロヘロであり、疲労のあまり今日も寝坊して朝9時の集合に間に合わない……



 ということにはなっていない。



「どう? 流石にピントが合わないってことはないかな?」


 学生研究員室の丸椅子に座って光学顕微鏡を覗いている僕にヤミ子先輩が背後から声をかけてくる。


「ええ、今40倍で合わせられました」


 ピントが合ったならそのまま覗いておけばよい所を、僕はわざわざ先輩の方に向き直った。


 目線の先にはいつものノースリーブシャツに身を包んだヤミ子先輩の姿があり、学生研究員室には試薬も実験器具もないということで最近の先輩はこの部屋では白衣を着ていなかった。


「じゃあ、とりあえず皮質の部分を拡大してみてくれる? まずは私が探すからとりあえず100倍で」

「分かりました。やってみます……」


 そう返事しつつも頭の中は先輩の綺麗な顔とほどよく肉の付いた二の腕のことで一杯である。


 光学顕微鏡の粗動ねじと微動ねじをささっと操作し、100倍でピントを合わせる。



「100倍でピント合わせました。ここが皮質でいいですか?」


 丸椅子をスライドさせて横に退こうとした矢先、


「ちょっと見せてねー」

「んぐっ!」


 先輩はあっさり僕の背中越しに接眼レンズを覗き、例によって柔らかな感触が背中に押しつけられる。


「あれっ、どっかぶつけた?」

「いえ何でもないです!」


 こういうことにならないよう気を付けているのだが、先輩は狙っているのかいないのか一緒にいると思わぬトラブルに遭遇しがちである。


 今日は先輩と一緒に顕微鏡でプレパラートを見て勉強することになっており、初日ということもあって今現在はアポトーシスの所見を学んでいた。



 アポトーシスとは生物の細胞が外部からのダメージを受け、周囲への悪影響を与えない形で死ぬことを指す。


 突然の大きなダメージで周囲の細胞もろとも一気にやられてしまうネクローシス(壊死)とは異なりアポトーシスは生体の計画的な自己防衛反応と呼べるものであり、がんの研究などでもアポトーシスの所見は重視されているという。


 勉強の材料に選ばれたのはヤミ子先輩が保有している腎臓のHE染色のプレパラートで、僕はスライドグラス上に並んだ腎臓の皮質部分にピントを合わせていた。



「OKOK、ちゃんと皮質を見れてるよ。尿路に続いててスカスカなのが腎盂じんう、ヘンレのループがあって密度低めなのが髄質、尿細管で埋まっててしっかり染まってるのが皮質だからこの3つはよく覚えておいてね」


 顕微鏡を覗きながら話す先輩の横顔を眺めていた僕の頭には、そのような説明など当然入ってこない。


「じゃ、今から一緒にアポトーシス探そうね。ちょっと待ってて」


 ヤミ子先輩はそう言うと近くの丸椅子を引きずってきて僕の隣に座った。


 先輩の左の二の腕が僕の身体に接触し、心拍数が急上昇する。



「まずアポトーシスがどういう所にあるかなんだけど……」

「は、はいっ……」


 それから顕微鏡を覗かせながら色々説明してくれたが、僕の思考回路は先輩のすべすべとした肌の感触に支配されていた。



 ハードな研修の1か月と聞いていたが、これが今の僕の実態である。


 やっていることと言えばひたすら動物実験と病理学の基礎的な勉強とを繰り返しているだけなのだがヤミ子先輩が見せる何気ない色気に僕は完全にやられてしまい、疲労が激しいのに今日の朝あっさり起きられたのも全てはヤミ子先輩に早く会いたかったからだった。



 マレー先輩が以前言っていたことは紛れもなく事実であり、ヤミ子先輩は確かに魔性の女だった。


 美人度で言えば剖良先輩や美波さんの方が上かも知れないし壬生川にゅうがわさんのようにスタイルが抜群な訳でもない。


 異性に媚を売るような振る舞いをしている訳ではなく性別の違いをあまり意識させない態度で通しているのだが、そのことがむしろ色気を生じさせている。


 身だしなみには相当気を遣っているらしく、ノースリーブシャツから覗く両腕はいつも綺麗だし日焼け止めを入念に塗っているのか肌はいつも真っ白。


 ハレの日モードの壬生川さんほどではないがメイクもちゃんとしており、自分が美人であることに甘んじない姿勢には好感が持てた。


 綺麗好きな性質は普段の生活にも表れているらしく、僕らが今いる学生研究員室はいつもピカピカに掃除されている。比較するのも申し訳ないが、解剖学教室や生理学教室の学生研究員室はいつも結構雑然としていた。



 単にルックスや振る舞いの問題に留まらず、ヤミ子先輩は一人の社会人としても魅力に溢れた人だ。


 誰かが軽く怪我していたり部屋の備品が壊れていたりするとすぐに気づくし、道端で困っている子供やお年寄りがいたら率先して声をかける。


 例えば阪急皆月市駅から畿内医大に直結の出口は横断歩道に面しており歩行者が通過するには信号の切替ボタンを押す必要があるのだが、附属病院を初めて受診するお年寄りなどはそれに気づかず立ち往生してしまいがちである。


 ヤミ子先輩はそのような人を見かけると率先してボタンを押してあげて、同時に「ここはボタン押さないと通れないんですよー」とさりげなく声をかけてあげていた。


 それでいて先輩は他者の事情に土足で踏み込むような真似はせず、誰かを気遣う時も必ず一定の距離感を心得ている。


 このような魅力は普段から一緒にいないと分からないものばかりで、先月までのヤミ子先輩への評価は彼女の魅力の表層しか見ていなかった。



 今の僕は異性として完全にヤミ子先輩に惹かれてしまっているがだから先輩にアプローチしようという段階には全くなっておらず、今の所はこの人と一緒に過ごせる時間を大事にしようとだけ思っている。


 知り合ったのは3月でもまともに交流するようになってからはまだ1週間だし、下手に動いて研究医生同士の関係が崩れるのはもってのほかなので今月を恋愛にまつわるトラブルに巻き込まれず過ごすという当初の目的は変わっていなかった。

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